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四万十川・歩いて下る

【書評再録】


●朝日新聞読書欄「著者紹介」(1995年7月16日)=見たものはやはり、この自然もまた、開発のつめに傷ついていたという現実。聞いたのは、川からの恵みの先細りを嘆く漁業、林業で暮らしを立てる人々の声である。清流の最後をみとりたくない--この本には、そんな危機感が託されている。
魚は減り、伝統漁法も失われていく。四万十川にはダムはない、とされる。だが、事実上の“ダム”である堰堤が、水力発電のタービンを回す動力として、大量に川から取水する。役目を終えた水が川に戻ることはない。パイプラインで海に捨てられるのである。
あるいは、周辺の大規模林道建設工事や無残なまでの伐採。結果としてもたらされる保水力の低下など、ここで多田さんが指摘する「最後の清流」にとっての脅威は、実証的で示唆に富む。

●野田知佑氏(読書人)評(1995年8月18日)=四万十川は毎年下るが、ぼくは努めて暗いこと、悲しいことは書かず、楽しいことだけを選んで書いてきた。しかし、それは極めて卑怯なやり方だったと思う。ぼくが能天気に楽しい楽しいと書いている間に、四万十川では恐ろしいことが起きていたのである。そのことを、まず恥じる。著者の多田実は四万十川を見ても情緒に流されずに、見るべきものを見、会うべき人に会い、聞くべきことを聞き、書くべきことを書いた。
この本をできるだけ多くの人に読んでもらいたいと思う。今、日本全国で一斉に起きている自然破壊。各地の自然保護の集会に出ると、あらゆる県、市、町、村の行政による凄まじい自然破壊(行政はこれを開発と呼んでいるが)が報告されている。この本を読むと、なぜこの国の官僚が農業を潰したがるのか、林業を潰して山の守り人を山から追い出したがるのか、なぜ不要の干拓をして漁師たちを陸に追い上げたがるのか、そしてその結果、川の水が汚れ、水が減り、川の魚が少なくなっていくのかがわかる。
自然保護に関心のある人には必読の本である。読むべし。

●椎名誠氏(週刊文春「新宿赤マント」)評(1995年9月7日号)=この本を読んでいると日本の山林、河川行政、地方自治体のやっていることがいかにめちゃくちゃか、ということがよくわかる。ていねいで鋭いアウトドアルポの傑作。

●野田知佑氏(本の雑誌「選挙と読書の日々」)評(1995年9月号)=日本の自然はここ数年、急激に衰亡しているが、その構造的原因は何か、ということを理路整然と数字をあげて書いてあるのが「四万十川・歩いて下る」だ。読んでいると次第に腹が立ち、やりきれなくなってくるのでとても一気に読み終えることはできない辛い本だ。しかし、日本の自然の問題について、一家言持ちたい人には一読をおすすめする。

●山と渓谷「今月の一冊」(1995年9月号)=国土の大部分が山岳地帯である日本は豊かな川の国でもある。その中でも、最後の清流といわれる四万十川。しかし、ここも、さまざまな自然破壊に蝕まれつつあるのだった。
人と自然の関わりをテーマに、四万十川の源流から河口までを自らの足で歩き、そこから行政の問題点をまとめた。
川を通して、自然と人との関わりを考えさせられる一冊だ。

●ビーパル「今月の会ってみたかった人」欄今、環境を気にする人の間でひそかに話題になっている本がある。四万十川を歩いて下り、そこで行なわれている無用の工事の驚くべき実態を報告し、官僚を真っ向から批判したルポルタージュだ。
上流から下流まで徒歩で下り、破壊の構造を解き明かした「四万十川・歩いて下る」は、いま霞が関界隈でちょっとした脅威本として扱われている。
建設、農水という二大省庁と、そこで定年になった人たちの天下り先である特殊法人の活動。さらに業界との癒着構造。彼らがどのように地域社会と自然を牛耳ってきたかを、旺盛な取材力で、四万十川のささ濁りの中からすくい上げる。

●自然保護評(1995年9月号)=「日本最後の清流」といわれる四万十川の源流から河口までを徒歩旅行する中で見た川の姿を紹介している。
人のくらし、生き物との出会い、ダムや護岸の工事、山村の経済……など、いろいろな現実が川の流れとともに現れては消えていく。一人ひとりの川とのかかわりが、国の方針という大きな力であっという間に変わる、そんな現実には悲しみや怒りがつのる。
一方で、まだまだこの世も捨てたものじゃないという気にもなる。自分の目で見て知ること、自分の足で歩く早さ、そんなことがとても力を持つことを、このルポルタージュが実証しているからだろう。川とかかわることを捨てないかぎり、大切なものを守りたいという思いがあるかぎり、自分の等身大でできることはまだまだある。

●バーダー評(1996年1月号)=大多数の日本人は「最後の清流」的な枕詞つきで紹介される四万十川の周辺に住む人々は、美しく自然に抱かれた素朴で豊かな生活を送っているという幻想を抱いているかもしれない。著者もそれを期待して現地入りしたが、結局はこの国の問題点そのものに出会うことになってしまったという。
有権者、というよりこの国に参加している市民として、社会のありように対する危機意識を励起される本。

●ダイバー評(1995年12月号)=「最後の清流」とうたわれる四万十川は、著者が長い間憧れ続けた桃源郷だった。しかし実際目にした四万十川は、清流とはほど遠い濁った流れだった。「何かがおかしい、どうも変だ」という思いから、源流部の山奥から河口まで、四万十川を歩いて下る旅が始まる。自分で歩いて観察し、流域に住む人々と交流し、見えてくるのは、スギ、ヒノキなどの針葉樹の大規模な植林で保水力を失い雨が降るごとに土砂を流し出す山、コンクリートで川をがちがちに固め、生き物の住む余地も与えない護岸工事、川を寸断し魚も上れない、下流に水も流さないダム。それは政府のでたらめな政策と、政治家、官僚、財界のみにくい癒着でできあがった開発・発展という名目の自然への魔の手だった。著者はこうした癒着構造を徹底的に批判する。
本書は四万十川を通し、官僚と財界が私利私欲のために、自然を破壊しながら無意味なものを作り続けている構造をはっきりと浮き彫りにしてくれる。このままボクらが黙っていてはいけない。何かアクションを起こさなければいけないときだと教えてくれる。

●ATT研究情報評(1996年9月10日号)=本の半分は楽しい徒歩旅行の体験談。残りは護岸工事、林道工事のすさまじさ、天然林を伐採してスギ、ヒノキに変えていく林業行政のレポート。当然旅の部分は生き生きとした文章で楽しく読めるが、工事のところは、ああ四万十川お前もか、と愕然とすることになる。
救いは中流の十和村の存在で、林野庁型の造林政策に反しシイタケ、クリ、山菜、炭焼きといった、山村農業、広葉樹林内林業を成功させている村があることである。この章だけでも一読の価値あり。

●出版ニュース評(1995年8月中旬号)=世界中の辺境をバイクで走り抜けた経験をもつ著者は「最後の天然河川」や「最後の清流」と呼ばれる四国・四万十川の源流を探り、徒歩で河口まで踏破した。この本は、その時のフィールドノートであり、出会った人々との交友録である。
楽しいルポであるが、読むにつれ、荒廃していく山々が痛ましくなり、国有林を保水力のない人工林に切り替えていく国有林野事業の矛盾には怒りが込み上げてくる。
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