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斎藤茂男取材ノート3 娘たちは根腐れて 【書評再録】 | |||
●北海道新聞評(1990年3月26日)=日本の高度経済成長を支えた車の両輪---「労働」と「教育」の現場を丹念に取材していたころの記録を収めている。一見きらびやかな“繁栄日本”の背後にうごめく人間搾取の実態を暴き出す。経済効率優先の時代にあって、労働者はもちろん、子どもたちまでもがカネもうけの道具にされている。とくに少女たちは、みずみずしい「生」への根源的な欲求を失い、人格の土台部分の根腐れ状況が深まっているのではないか---と悲劇に切り込む視点は強烈だ。
●助産婦雑誌評(1991年11月号)=生きること、私、男と女、夫婦、家族に対して、「どこへ行こうとしているのか」という内面への自立の問いかけを教えてくれている。 今後、科学技術の進歩は、回答の見つからない複雑な問題をいろいろ提供するであろう。そんな時代に、一人の人間として生きている意味と責任を自ら問い、模索することを忘れてはならないと知らせてくれた2冊の本であった。(「命の重さ」と一緒に評) ●出版ニュース評(1990年4月下旬号)=経済繁栄とひきかえに人びとが得たものは「過労死」であったり、消費欲求の膨張を制御できない生活であった。 著者は、同じような変化が学校でも起こっている、という。子どもが「ヒト」として尊重されるのではなく、人的資源として扱われる。企業の経営システムをとりいれた学校運営が広まり、若い教師たちの支持を集めていく。これは教育工場である。そして、同時代の報告者である著者は、その影の部分におしやられた人びとの痛苦の声をききとる。 ●サンデー毎日評(1990年4月1日号)=60年代の高度経済成長は、日本の社会を根本のところから変容させていった。今、そのつけが回ってきている。人格を崩す少女たち、画一化する学校の内部、労働の非人間化……。子どもたちは“異端であること”を極度に恐れる。「労働」と「教育」の現場から、自閉する繁栄日本の姿を見る。 ●BE SURE評(1990年5月号)=現代社会のゆがみはどこから来た? '70年代半ばから、'80年代にかけての、労働と教育の場を取材してきたときのルポルタージュ集だ。 教育や労働の場において、なぜこんなに居心地が悪い思いをするのか、その原因を探っていく。 なお書名の「娘たちは根腐れて」は中に収録のルポよりとった。女子中学生の人格の崩れ---労働をつまらなく、嫌なものとしてしか受けとめていない---という報告をもとに、娘たちの閉塞状況とそこに追い込んだ過程を説き明かしている。 ●赤旗評(1990年4月2日)=高度経済成長下の労働現場の実態を丹念に取材する中で日本の繁栄の虚構を突くルポルタージュ、管理主義と競争で精神をむしばまれる子どもたちに思いを寄せ、教育構造のゆがみを鋭く追及するエッセーなど、豊富な取材経験から現代の病弊を告発しています。 | |||
斎藤茂男取材ノート【書評再録】 | |||
●朝日新聞評(1989年12月3日)=ジャーナリストとして生きた著者の深いエートスが、詩的に、しかし剛直に表現されていて、心を打たれる。
●信濃毎日新聞評(1990年5月6日)=つらいこと、悲しいこと、困ったこと、たくさんの荷を背負って一生懸命生きようとしている人間の味方になってほしい。心の底に正義を愛する火を燃やしつづけている人がいい---と著者はジャーナリスト志望者に語る。これは一般人にもあてはまることだ。このマトモな姿勢、飽食金満大国人が急速に失っている心と勇気を「斎藤茂男取材ノート」全集によって骨のずいに叩き込まれる思いがした。 ●出版ダイジェスト評(1990年4月21日)=このシリーズはまさに、時代のうねりの最前線につねに身を置いてきたジャーナリストが検証した臨場感あふれる「戦後昭和史」となっている。 ●読書人評(1990年1月8日)=「卓越した取材力と人間に注ぐ暖かい視点」を持つ斎藤氏の、ジャーナリストとしての原点がくっきりと刻み込まれている。 斎藤氏自身の表現を借りれば、この「取材ノート」に収録される文章は、記者生活の中で、右から左へと軽く受け渡してしまう気になれず、記者の業務としてというよりもむしろ、個人のこだわりで追い続けけたテーマ---謀略、冤罪、天皇、高度成長、労働、子ども、女性、家族、性、生命そのほか---についての、取材体験エピソードを交えての報告である。 ●三田評論(内海愛子氏)評(1991年1月号)=斎藤茂男の仕事の中から、私は事実にこだわり、歩き、考えていくことの大切さを教えられた。当たり前のようなことだができにくいこの生き方は、ジャーナリストだけではなく、市民運動でも研究でも欠かせない姿勢であるからだ。事実にこだわり歩く、執拗に歩く斎藤氏の姿が、いつの間にかアジアを歩くときの私の意識のどこかにこびりついてきた。 今回の「取材ノート」は、氏のこれまで書きためてきた記事と取材ノートで構成されており、取材の裏側を見せてくれて興味深い。それだけでなく、テーマごとに記事がまとめられているので筆者の事実へ切り込む視角がよくわかる。克明に取られた取材ノート、短い記事の裏につぎ込まれた情熱、社会的弱者への温かい眼差し、権力犯罪への怒り--時に応じて見せるジャーナリストのこころの動きが読みやすい文章の中から浮かび上がり、多くの時間を経過した今も読む者の心を打つ。 「取材ノート」全巻、どれをとっても氏の生きてきた戦後日本社会の血のにじむような姿が見えてくる。すぐれたジャーナリストが、たぎるおもいで書き綴ったこれらの書を読み終えて、深いため息とともに自分の過去を振り返る人も多いだろう。だが、大事なのはこの現実に立ち向かってどう生きていくのか、考えることだ。斎藤氏が取材のかたわら多くの時間をさいて市民運動にかかわる、そのこだわりも読み落としてはならない。 ●学生新聞評(1990年3月17日)=数々のすぐれたノンフィクションを生み出している斎藤茂男さんはいま、「斎藤茂男取材ノート」を刊行中です。 いままでに書いてきた新聞記事、雑誌原稿で単行本に未収録のものを素材に、取材エピソードなど書き下ろしも交えて編集したもの。30余年にわたって記者生活を送った共同通信社を一昨年、退職。その仕事の総括というだけでなく、戦後日本の検証ともいうべきこの「取材ノート」を通して、「これからの生き方というか、これからの日本というものを考える手がかりみたいなものを提供できればいい」と、斎藤さんは語ります。 「自分で現実にふれてみて、自分自身に新しい発見があった、驚いたという深い取材をしないで、“そういうのは、この間どっかで読んだな”というような記事を何万回書いても、読者に響いてこない」という斎藤さんの、現実から学ぶ姿勢と、真実に迫る探求心。それはジャーナリストだけでなく、学生にとっても重い意味をもつ大切なことではないでしょうか。 ●エル・ナイン評(1990年5月号)=日常を矢継ぎ早に流れていく出来事や現象に、一時心を動かし、憤ることはあっても、何かがおかしい、歪められていると感じていても、私たちは多くの場合、それらの奥に潜む事の本質に気づかぬまま、あるいは、知ろうとせず、考える時間を持たぬまま、いとも簡単に諦め、都合よく忘れ去るということを繰り返し、ここまで来てしまった。その結果が、戦後45年、効率至上主義、モノ・カネ溢れる金満飽食大国日本と日本人の姿だろう。 この斎藤茂男取材ノートは、30年という長い記者生活を通して彼がこだわり、追い続けけてきたテーマ、謀略・冤罪・天皇・高度成長・労働・子ども・女性・家族・性・生命---について、取材体験エピソードを交えながら、読みやすくまとめたものである。 歴史的な流れと背景を縦糸に、そして目の前の現象を横糸に、表から裏から執拗にくいさがり、物事の核心に迫っていこうとする彼の姿勢は圧巻。また、その目は一貫して弱い者、抑圧される側に立ち、どろどろとしたその構造を睨みながらも、私たちもまた、いつのまにか抑圧する側に立たされているという事実を、さながら推理小説を読んでいるかのような面白さと明快さで、くっきりと浮かび上がらせていく。 ●聖教新聞評(1990年5月9日)=時代の取材記者として、時代を熱くした事件の現場へ、あるいは闇に葬られた問題の密室へ、政治の谷間で息をひそめる人びとの心の中へ、と誠実に飛び込んでいった結果が、この広範なテーマとの格闘なのだろう。すぐれた取材技術もさることながら、時代の現場に真正面から立ち向かう行動こそ学ぶべき作法といえよう。 | |||
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