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斎藤茂男取材ノート2 地下帝国へ 【書評再録】 | |||
●山陽新聞(1990年4月5日)=甲州ブドウで知られる山梨県勝沼町。この地の貧しい農家に生まれた一人の目立たない少年は、小学校を出ると上京。やがて軍部に食い込み、戦後の混乱やベトナム戦争に乗じて巨大な富を築く。「政商」「怪物」などと呼ばれたロッキード事件の元被告小佐野賢治氏(故人)の知られざる姿である。 彼をひたすら金の道へと駆り立てたものは何だったのか---克明かつ広範囲な取材でその謎に迫り、さらに幻の大疑獄グラマン・ダグラス事件や土地転がしなど現代の暗部を暴いていく。その過程で明らかになるのは、損得勘定のみを基軸にあわただしく動き回る“カネまみれ日本人”の姿である。 ●赤旗評(1990年1月29日)=ロッキード疑獄をめぐる取材や、それに劣らぬ重大疑惑---戦闘機輸入にまつわる事件の真相を追及した「日本地下帝国」、「朝日」の本多勝一記者との対話で商業ジャーナリズムの制約などを突く「いまジャーナリズムで何が問題か」など、新聞記者として第一線で活躍してきた著者が紙誌に発表したものを収録したものです。“ミッチーブーム”の裏側やXデーをはさむマスコミ競争への告発など鋭い論評があります。 | |||
斎藤茂男取材ノート【書評再録】 | |||
●朝日新聞評(1989年12月3日)=ジャーナリストとして生きた著者の深いエートスが、詩的に、しかし剛直に表現されていて、心を打たれる。
●信濃毎日新聞評(1990年5月6日)=つらいこと、悲しいこと、困ったこと、たくさんの荷を背負って一生懸命生きようとしている人間の味方になってほしい。心の底に正義を愛する火を燃やしつづけている人がいい---と著者はジャーナリスト志望者に語る。これは一般人にもあてはまることだ。このマトモな姿勢、飽食金満大国人が急速に失っている心と勇気を「斎藤茂男取材ノート」全集によって骨のずいに叩き込まれる思いがした。 ●出版ダイジェスト評(1990年4月21日)=このシリーズはまさに、時代のうねりの最前線につねに身を置いてきたジャーナリストが検証した臨場感あふれる「戦後昭和史」となっている。 ●読書人評(1990年1月8日)=「卓越した取材力と人間に注ぐ暖かい視点」を持つ斎藤氏の、ジャーナリストとしての原点がくっきりと刻み込まれている。 斎藤氏自身の表現を借りれば、この「取材ノート」に収録される文章は、記者生活の中で、右から左へと軽く受け渡してしまう気になれず、記者の業務としてというよりもむしろ、個人のこだわりで追い続けけたテーマ---謀略、冤罪、天皇、高度成長、労働、子ども、女性、家族、性、生命そのほか---についての、取材体験エピソードを交えての報告である。 ●三田評論(内海愛子氏)評(1991年1月号)=斎藤茂男の仕事の中から、私は事実にこだわり、歩き、考えていくことの大切さを教えられた。当たり前のようなことだができにくいこの生き方は、ジャーナリストだけではなく、市民運動でも研究でも欠かせない姿勢であるからだ。事実にこだわり歩く、執拗に歩く斎藤氏の姿が、いつの間にかアジアを歩くときの私の意識のどこかにこびりついてきた。 今回の「取材ノート」は、氏のこれまで書きためてきた記事と取材ノートで構成されており、取材の裏側を見せてくれて興味深い。それだけでなく、テーマごとに記事がまとめられているので筆者の事実へ切り込む視角がよくわかる。克明に取られた取材ノート、短い記事の裏につぎ込まれた情熱、社会的弱者への温かい眼差し、権力犯罪への怒り--時に応じて見せるジャーナリストのこころの動きが読みやすい文章の中から浮かび上がり、多くの時間を経過した今も読む者の心を打つ。 「取材ノート」全巻、どれをとっても氏の生きてきた戦後日本社会の血のにじむような姿が見えてくる。すぐれたジャーナリストが、たぎるおもいで書き綴ったこれらの書を読み終えて、深いため息とともに自分の過去を振り返る人も多いだろう。だが、大事なのはこの現実に立ち向かってどう生きていくのか、考えることだ。斎藤氏が取材のかたわら多くの時間をさいて市民運動にかかわる、そのこだわりも読み落としてはならない。 ●学生新聞評(1990年3月17日)=数々のすぐれたノンフィクションを生み出している斎藤茂男さんはいま、「斎藤茂男取材ノート」を刊行中です。 いままでに書いてきた新聞記事、雑誌原稿で単行本に未収録のものを素材に、取材エピソードなど書き下ろしも交えて編集したもの。30余年にわたって記者生活を送った共同通信社を一昨年、退職。その仕事の総括というだけでなく、戦後日本の検証ともいうべきこの「取材ノート」を通して、「これからの生き方というか、これからの日本というものを考える手がかりみたいなものを提供できればいい」と、斎藤さんは語ります。 「自分で現実にふれてみて、自分自身に新しい発見があった、驚いたという深い取材をしないで、“そういうのは、この間どっかで読んだな”というような記事を何万回書いても、読者に響いてこない」という斎藤さんの、現実から学ぶ姿勢と、真実に迫る探求心。それはジャーナリストだけでなく、学生にとっても重い意味をもつ大切なことではないでしょうか。 ●エル・ナイン評(1990年5月号)=日常を矢継ぎ早に流れていく出来事や現象に、一時心を動かし、憤ることはあっても、何かがおかしい、歪められていると感じていても、私たちは多くの場合、それらの奥に潜む事の本質に気づかぬまま、あるいは、知ろうとせず、考える時間を持たぬまま、いとも簡単に諦め、都合よく忘れ去るということを繰り返し、ここまで来てしまった。その結果が、戦後45年、効率至上主義、モノ・カネ溢れる金満飽食大国日本と日本人の姿だろう。 この斎藤茂男取材ノートは、30年という長い記者生活を通して彼がこだわり、追い続けけてきたテーマ、謀略・冤罪・天皇・高度成長・労働・子ども・女性・家族・性・生命---について、取材体験エピソードを交えながら、読みやすくまとめたものである。 歴史的な流れと背景を縦糸に、そして目の前の現象を横糸に、表から裏から執拗にくいさがり、物事の核心に迫っていこうとする彼の姿勢は圧巻。また、その目は一貫して弱い者、抑圧される側に立ち、どろどろとしたその構造を睨みながらも、私たちもまた、いつのまにか抑圧する側に立たされているという事実を、さながら推理小説を読んでいるかのような面白さと明快さで、くっきりと浮かび上がらせていく。 ●聖教新聞評(1990年5月9日)=時代の取材記者として、時代を熱くした事件の現場へ、あるいは闇に葬られた問題の密室へ、政治の谷間で息をひそめる人びとの心の中へ、と誠実に飛び込んでいった結果が、この広範なテーマとの格闘なのだろう。すぐれた取材技術もさることながら、時代の現場に真正面から立ち向かう行動こそ学ぶべき作法といえよう。 | |||
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