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三〇代が読んだ『わだつみ』 【書評再録】 | |||
●朝日新聞評(1993年7月26日)=関係者を訪ね、学徒兵たち一人ひとりの人柄を調べ、何を思って死んでいったかに肉薄した。 「彼ら」の記憶を、そのまま腹の中に持っておく大事さなど、いくつかのユニークな結論を引き出した。 ●毎日新聞評(1993年8月9日)=戦争を知らない33歳の著者が戦没学生の手記「きけ わだつみのこえ」を読み、関係者に会い、参考文献にあたり、50年前の20代の叫びと死んだ学徒たちの死の意味を考える鎮魂の書。 ●毎日新聞評(1993年8月9日)=若い世代が「わだつみ」世代の残した文章にいま接する意味を誠実に考えた本として話題になっている。 知性を持ち、エリートとしての地位を約束されていた当時の「学徒兵」たちは、どのように自分たちの「死」を納得させていったのか。堀切さんは彼らの心の中に、ある“自然”があったことも否定できないと考える。そして、戦後という時代、人々はあの戦争を否定し忘れ去ろうとするのに急なあまり、この“自然”を隠蔽し、封印してきたと指摘する。 こうした堀切さんの姿勢は「学徒兵」の死を「時代の犠牲」といったかたちで見たり、彼らの死のうえに現在の「平和と繁栄」があるといったようにとらえる「定番の考え」の否定につながる。 《逝ったのは「多くの犠牲者たち」なのではなく、夢も、懊悩も、不意の喜びもまた激しい怒りも、そして愛情の世界もその時々に胸に秘めた、ひとつひとつの魂なのだ》 堀切さんは「わだつみ」を読むことが「個から個への伝言」として届き始めたとも書いている。私たちは死者をどう記憶できるか。さらにそれらの記憶を「ラベルを貼った記憶」としてではなく持ち続けられるか。 ●読売新聞評(1993年8月17日)=「きけ わだつみのこえ」を2年かけて読み、死者たちの言葉とその書物がもつ意味を考え直そうというユニークな本。 「反戦」や「平和」など紋切り型の教訓として読むことを努めて避け、戦没学生らに身を寄せるように行きつ戻りつしながら読みすすんだ。やがて「わだつみ」は後世への遺言としてよりも、個人から個人への伝言として届いてきた……最後の結論が読ませる。 わだつみ世代が高齢化する一方、戦後のロングセラーの「わだつみ」が宙にさまよっているおり、若い世代から力強い応答が寄せられた。 ●日本経済新聞「活字のうちそと・井尻千男」(1993年8月8日)=いま30歳の堀切氏が、当時20数歳で死地に赴いた学徒兵の手記をどう読んだか、その率直な記録がこの本である。 死地を前にしたとき、言葉はすごい力をもつものだ。原爆忌、終戦記念日、お盆。8月は死者と語らう月である。 ●産経新聞評(1993年8月14日)=「三〇代が読んだ『わだつみ』」が話題を集めている。 20歳代で死と向かい合った戦没学生らの日記、手紙、遺書などをまとめ昭和24年に出版された「きけ わだつみのこえ」。30代の著者が現在、そこから何を感じ取れるか。「わだつみ」をノートに書き写し、今も生存するわだつみ世代の人々と面談し、その心情を理解しようとする姿を克明につづったルポルタージュだ。 ●北海道新聞評(1993年8月2日)=戦没学生の中には、軍隊の非人間性に反発、戦争にもかすかな疑問を感じながらも、死地に向かう直前には「お国のため」「家族を守るため」と、澄み切ったような心境を書き残した人が少なくない。 矛盾であり、判断停止ではないかと思いつつも、堀切さんは、彼らがなぜ、そうならざるをえなかったのかとまで、思考を深めていく。 「あの戦争とはなんだったのか」を、これほど深く冷静に、誠実に考えてみようとする若者がいることを、戦没学生より約10年下回るだけの旧世代の1人として心強く思った。 ●東京新聞評(1993年8月5日)=日本戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』から、いま何を聞きとればいいのかと30代の著者は問いかける。そして自分より年下のまだ20代だった学生たちは、自らの死をどのように納得していったのか、遺族や生き残った人たちに会い、“死者たち”の肉声に迫ろうとする。学徒出陣から50年、いま、こんな若い人もいる。 ●中国新聞評(1993年8月14日)=型にはまった共感や情に流されるのを避け、誠実に死者との対話を試みる。時には同世代の友人と話し合い、遺族を訪ねていくことから「自分たちの世代が『世界史は人間が作るもの』という意識をしばらく忘れていた」と思うようになる。そして、その意識は若くして死んでいった彼らが強く持っていたのではないか、と考えるようになる。 ●京都新聞評(1993年8月10日)=33歳の著者が彼らの遺書を読み、生還した学徒兵とのインタビューを通し、「死者」が後世に託した思いを受け止めようとする。著者は「彼らの死を賭けた経験が、われわれの進路を照らす」と結ぶ。 ●週刊朝日評(1993年8月27日号)=---俺は静かな黄昏の田畑の中で、俺たちに頭を下げてくれる子供たちのいじらしさに、強く胸を打たれたのである。……本当にあのようなかわいい子らのためなら、生命も決して惜しくはない。 「彼らが守ろうとした日本って、そういう日本なんだろう。戦争に行くという選択が自然に思えてきた」 言葉だけの反戦は空虚に響く。彼らに近づくことで、堀切さんは力も得た。 「10代の頃、世界史は人間がつくると思っていた。いつの間にか薄れていたその考えを取り戻せました。魂のこもった言葉って人を動かすんですね。彼らは宝を残したと思う」 ●週刊ポスト評(1993年9月17日号)=散った人たちとの澄明な対話。 著者は、「きけ わだつみのこえ」に辛うじて書きとどめられた死者たちの一人一人を巡礼することによって、自己変革し、“記憶する”という歴史的感覚を自らのものとしたのである。見事な“読解”の軌跡である。 ●週刊プレイボーイ評(1993年9月7日号)=この本は『わだつみ』を残した死者たちとの付き合い方を教えてくれる本なのだ。読み終えた人はきっと、「きけ わだつみのこえ」を読まずにはいられないだろう。『わだつみ』の人々の思いを自分の胸に甦らせるために。その時、太平洋戦争とはなんだったのかが50年後の僕たちにも少しは理解できるんじゃないだろうか。 ●日刊ゲンダイ評(1993年8月11日)=戦無派世代が、学徒出陣で散った若者たちの魂の叫びと交感した異色の論考である。 ●本の本評(1993年10月号)=33歳の若者が『きけ わだつみのこえ』を読む。20歳そこそこで死線を超えていった「若者たち」と、世紀末に生きる私たちがどのような関係を持ちうるのか。過去と孤絶することなく現在を自覚して生きることの意味について煩悶しつつも思いを巡らせていく。 すると、彼の前に「わだつみ」を通じて親しくなった「死者たち」が現れ、語りかけてくる。 「一人一人の生きていたことを、一人一人の記憶として心に留めておいてほしいのだ……」 重いテーマを扱いながら不思議と読後感がさわやかな今秋おすすめの一冊である。 ●出版ニュース評(1993年10月上旬号)=紋切り型の反戦・平和論でまとめることをよしとせず、「逝ったのは『多くの犠牲者たち』なのではなくて、夢も、懊悩も、不意の喜びもまた激しい怒りも」「胸に秘めた、ひとつひとつの魂」との対話を懸命に試みる。著者の同世代の男女とのディスカッションも収録され、生きた現実に照らした『わだつみ』検証の記録として読みたい。 ●ほんコミュニケート評(1993年11月号)=「なんとなく」青春をすごした33歳の著者と、50年前、20歳そこそこで死線を越えていった健康な若者たち。彼ら若い「死者たち」と、その遺書を通じて新しい関係を築くまでの、めくるめく発見の旅。 ●ジャーナリスト同盟報評(1993年9月1日号)=戦争を知らない世代の著者が2年前、ある機縁から「わだつみ」を読み、その死者たちとの「親しい関係」を求めて「わだつみ」の心に迫っていった。この本は、その2年間の著者の「わだつみ」をめぐる心の軌跡、「めくるめく発見」を束ねて綴った労作である。世代を超えて共有できる言葉だ。 ●技術教室評(1993年12月号)=1943年、学徒出陣に13万人がかりだされた。「聖戦」の名のもとに少なくない若者が海の藻屑となった。彼らの遺書をもとに著者は遺族を訪ねる。死んでいった若者にも心を痛めるが、生きて戻って、戦後を生きている古老の言葉に、戦争の傷の深さを増幅させる。 著者は本の最後にこう結ぶ。 「……過ぎ去った悲劇と、定まらぬ未来の間に、通路が開かれる。彼らの死をかけた経験が、われわれの進路を照らす。それが、いま『きけ わだつみのこえ』を読むことの意味なのだ」 一読を勧める。 ●地団研そくほう評(1993年10月1日号)=学徒兵を戦争の世代の特別の集団として扱うのでなく、未来を育む若い世代が戦争による自由の束縛と、葛藤した魂の記録として現代の若い世代に読んでもらいたい。本書はまさに30代を代表する著者が、改めて「わだつみ世代」の残した記録を読み、生き残っている人たちと対話しながら自分の言葉で書き記したものである。若い人たちにぜひ一読を薦めたい。 ●聖教新聞評(1993年9月8日)=30歳を過ぎてから、改めて戦没学生兵の手記を読んでみる。一切の感傷や先入観を振り捨てて。戦場という苛酷な「現実」の中にあって普遍の「真実」を必死に求め、検閲を気遣いながら記された「精神のアクロバット」、その奥底にひそむあがきを、著者は見つめ、感じていく。それは、ほかならぬ今の自分の生と死に、面と向き合う作業となった。半世紀の時をへだてて交わされた、これは痛切な“魂の対話”の記録。 ●公明新聞評(1993年8月15日)=30代の著者が、第二次世界大戦の応召した学徒兵が遺した「きけ わだつみのこえ」を通して、その生の姿に迫ろうとする。当時、20代であった学徒兵の意識と現在、30代の若者の意識との落差を冷静に見つめる中で、単に世代間のメッセージとしてではなく、個から個への伝言として受け止める時に、自らの存在、役割を確かめていこうとする、現代若者の健全な意識と姿勢が見てとれる。8.15のきょうという日、思いをいたしておきたいテーマである。 ●朝雲評(1993年8月26日)=本書は題名が示す通り「わだつみ」の読解だが、“めくるめく発見の旅”でもある。それは、死者への追悼や反戦の誓いといった「わだつみ」の普遍化ではなく、著者よりも若い死者たち、死と直面し、その内側を見、そこには入り込んでいった若々しい知性たちと、半世紀を経て邂逅する旅だったのである。 瑞々しい著者の感性に手を引かれて死者たちとの対話を試みてほしい。そこからやっと、戦争が見えてくる。 | |||
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