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死ぬことと生きること
[正・続]

【内容紹介】●正編「まえがき」より


 ぼくの数十年間書きためた原稿の一部が今度本になって諸君の目に止まることとなった。古い原稿がどれほどの価値をもつか、ぼくは知らない。古い原稿に対して諸君がどれほど興味をもつか、ぼくは知らない。しかし、諸君の目に止まることになった現在、なるべく故郷を忘れないと云うことと同じ様に、深い興味を諸君からもたれることをぼくは心から期待している。古い原稿でもあたたかい血の通ったように新鮮な興味を諸君がもつことを望んでいる。
 昔を思えば実にさまざまなことがあった、ぼくは若かった。その若さにまかせて自分の若さを全面に強く押し出すように自己顕示欲が非常に強かった。それは今から考えると馬鹿馬鹿しいほどであった。その強さが前面に押し出す様ないやらしさが、その時分の意見なり仕事なりに露骨であった。しかし、それはそれでいいとしなければならないであろう。
 自己顕示欲はぼくの年と共に後方に押しやられた。もうあまり自己顕示欲的な欲望に迷わされなくなった。昔は「鬼の土門」と云われたが、今は皆が「仏の土門」と云うようになったことでもわかるように、自己顕示欲はもはや後方へ押しやられたと思う。それは単に老いて若さが失くなったからと云うわけではない。ものに対して吟味する力が強くなったからである。ものに対して思考力が出て来たと云うことである。
 しかし、そう云う力を抜きにしてガムシャラに自分の考えを表面に押し出して考える考え方には、年をとった現在では考えられないほどの良さがある。若い者には若い者だけの考えの強さがある。それはぼくが若い時と同じである。今をなるべく考えまいと云う若い者には、若い者だけの考えがある。それがどのように自己顕示欲にささえられていようとも、諸君よ! 今しばらくぼくの若い時の意見に耳を傾けようではないか。若い者は全体に溢れるような若い者だけの良さがあるのだ。今はまず、土門拳の若い時分の意見を聴こうではないか。諸君よ! 諸君の若さが素晴らしく感動するものであっても、ぼくの意見にも耳を傾けよう。
死ぬことと生きること
[正・続]

【内容紹介】●続編「あとがき」より


 ぼくは広島に来た。この前に来た時から今日まで何年たったであろう。六年か、七年かになる。今回病気で倒れるその年以来である。
 今から一時間ほど前にぼくは平和公園の原爆慰霊碑に詣でた。ああー、あれから何年かの間に広島の被爆者はいったい何人死んだであろう。ぼくは原爆慰霊碑に詣でて、心から頭を下げた。今度広島に来たのは、ライフワーク「古寺巡礼」の写真展のためである。古寺巡礼とヒロシマとの間にはどういう関係があるであろう。一見、なんの関係もなさそうに見える。日本人として古典の美に生きるも、あるいは原爆の劫火の炎を浴びるのも、同じことなのである。一人の日本人として古典に生きるとも、原爆の火の粉を浴びるのも、この生きがたい世に生きるその人間の生きる苦しみは本当は同じなのである。ぼくはこの考えに憑かれて今広島に古寺巡礼と共に来たのである。
 この本でヒロシマに関する文章をたくさん載せている。それは写真集「ヒロシマ」から転載したものである。
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