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斎藤茂男取材ノート1
夢追い人よ

【内容紹介】本書「まえがき」より


 口はばったい言い方になるのを恐れずに申し上げれば、私なりに、この「取材ノート」に収録した文章には、ひとつひとつ深い思いがかかっており、どの行にも愛着がある。
 もともと私は、東京に本拠を置く報道機関で働いていた。記者という職にありついて、はじめてその職場に出掛けていったとき、机の上にずらりと並んだ電話の受話器が、まっ黒な生きもののような不気味さで、ひっきりなしに鳴りわめいていた。
 その騒然とした空気に圧倒されながらも、いちど味を覚えてしまうとやめられない秘薬を口にしたかのように、その日から私は「記者たちのいる職場」の、不思議な魅力にとりつかれてしまったらしい。
 いささかコッケイな錯覚にすぎないのだが、この職業は絶えず「未来という瞬間」に紙一重の最先端で接触しているのだ、という緊張感があって快かったのだろうか。記者であれば当然のことだが、コトが起こればきまって現場へ飛び出していく。そのたびに、「時代そのもの」にもっとも近い現場で、この手で触れているのだというナマナマしい躍動感が迫ってくる、その快さのせいだったのだろうか。いらい三十数年、人生の大部分を記者という仕事に没入して過ごしてしまった。
 この「取材ノート」5巻に収録した文章は、その記者生活の中で、私が右から左へと軽く受け渡してしまう気になれず、記者の業務としてというよりもむしろ、私個人のこだわりで追い続けけたテーマ---謀略・冤罪・天皇・高度成長・労働・子ども・女性・家族・性・生命そのほか---についての、取材体験エピソードをまじえての報告である。
 今回、この本をまとめるに当って書き下ろした部分もあるが、多くはかつてそのテーマに真向かっていたときに、新聞用の記事や雑誌原稿として書いたものだ。それらを狂言回し役である私の道案内で読み継いでいただく趣向である。
 消えかかった踏み跡を復元するように、およそ三千枚ほどの古ぼけた記録をつなぎ合わせ、脈絡をつけ、できるだけおもしろく読んでいただくにはどうしたらよいか、ないチエをしぼった。その結果、まずそれらの中から半分以下を捨てて、全体をスリムにしたうえ、一巻から一応年代を追って配列しながら、同時にあまり厳密に時代区分をせず、テーマごとのかたまりを見せるように工夫してみた。
 さて、こうして編んでいくと、歩いてきた道筋の向こうに、おぼろげながら戦後の「昭和」が姿を現わしてくるように、私には思えた。というよりも、戦後の「昭和」という時代を忌避し続けている私がそこにいる、と言った方が適切なのかもしれない。
 私の少し前の世代までは、青春まっただ中にあの戦争に狩り出され、無残に命を奪われた。そのすぐ下の弟の世代に当たる私のような者には、その命たちへの哀惜の情がひとしお強いせいだろうか、あの敗戦からきょうにいたるこの国のありように、いつまでも拒否感がある。戦争の大きな犠牲のあとに目ざした社会はこんなはずではなかったではないか、という無念さと言ったらいいだろうか。いつまでも現世になじめず、その抵抗感を支えにして生きているようなところさえある。あの意地悪い“影の声”に抗して、恥をしのんででもこの「取材ノート」をまとめることにしたのも、ひとつにはそんな昭和ひとケタのひとりの男の胸中にたぎる、執念深い「否!」の声を遺しておきたいという思いからである。
 さて、それでは、まず敗戦の焦土の風景が残る1949年夏からご案内することにしよう。
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