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悔恨のルソン 【内容紹介】本書「序---早乙女勝元(作家)」より | |||
昭和も去って、戦後も44年目になった。純粋に戦後生まれの方と、戦中に生まれていたけれどまだ幼児で記憶の乏しい方、双方合わせて戦争を知らぬ世代といっていいが、この国の人口の7割を越えたという。当然ながら、戦争体験者が少数派になっていくのは避けようがない。 現代の若者たちなど、戦争を知らぬ世代の代表みたいな存在だが、彼らの歴史的認識は決して十分ではなく、間違って伝えられている例がよくある。たとえば高校生の質問に「東条英機って西条秀樹のまちがいじゃん?」もあれば、「太平洋戦争って、どことどこの国がたたかったの? どっちが勝ってどっちが負けたの?」などという大学生の声などなど。…… これは彼らの不勉強ではなくて、もっぱら親や教師を含めた大人たちの責任だが、しかし日本の現代史の中の、つい40余年ほど前の父母(あるいは祖父母)の歴史も知らずしては、現在を正しく把握することはできない。その現在は明日につらなっている以上、若者たちもふくめて私たちは、今日から明日の平和のためにこそ、いま昭和史を戦争とのかかわりで、ひたすらに学ぶ必要があるのだと思う。「過去の教訓を学ばぬ者は、ふたたび同じ誤ちを繰り返す」(サンタヤーナ)の言葉をかみしめるべきであろう。 長井清さんが「懺悔の記録であり悔恨の思い」をこめて筆をとった本書は、かねてから、いわゆる戦記物に対する私の固定観念を一変させる記録であった。戦記物には得てして高級軍人の武勇伝と郷愁がみられ、戦争責任についての認識に欠けるものがすくなくないが、本書はそれらとちがって、読み出したとたんから強くひきつけられた。 予備学生出身の将校としてルソン島に投入された筆者が見た戦場とは、いったいどういうものだったのか。上官の命令による“腕試し”としての捕虜惨殺があり、飢餓で発狂寸前の精神状態での人肉食事件も起きた。見た話、聞いた話ではなく、筆者自身がすべて体験したことである。「戦争は人を狂わし、国を狂わすという。私の青春もまさに狂気の中にあった」と長井さんは述懐するが、私は溜息とともに読みつづけて、これが戦争の実態にちがいないと思った。 たまたま筆者が貧乏くじを引いたのではなくて、敵を殺すか自分が殺されるかのどちらかしかない戦場では、兵たるものはみな「狂気の中」に転落していくのであろう。彼らのほとんどがその心境を語らないのは、いまや語る術がないからである。死の世界からかろうじて脱出できた筆者だからこそ、死者の心が代弁できるのかもしれない。その意味では、まさに真実と痛恨の記録といえそうである。 本書を読んで、いつしか私もまた涙がとまらなかった。いつのまにやら、筆者と同じ心情になっていたからであろう。 このような歴史が、決してふたたび繰り返されてはならないと思う。 | |||
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