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富士山の噴火 万葉集から現代まで

【内容紹介】本書「はじめに」より


 富士山はいま、火山としての活動をまったくやめている。静岡県や山梨県など富士山を間近に見る人たちにとっても、富士山は雄大な、そして静かな山なのである。そこに住む人たちのお父さんお母さんの小さいころも、さらにおじいさんおばあさんの小さいころもやはりそうであった。宝永の爆発(1707年)はさておき、富士山は昔から、ほかの大部分の山とおなじように噴煙のない静かな山でありつづけた、そのように思っている人も多いであろう。富士が噴煙をあげて火山活動をしていたころの記憶を、家の古老から聞き伝えで知っている人は、いまはまったくいないのではないだろうか。
 ところが日本人ならだれでも知っている有名な話のなかに、噴煙をあげている富士を語っているものがある。それは「かぐや姫」で有名な「竹取物語」の最後の部分である。かぐや姫からもらった不老不死の薬を、日本でいちばん高い山の頂上で焼いた。それで、その山は富士(不死)の山というようになった。そして「それ以来、今にいたるまで富士の頂上には煙があがりつづけているのだ」。
 三歳の子供でさえ絵本で読んで知っている、この話の結末は、子どもたちに一つの疑問を抱かせるのではないだろうか。
「だって、富士山に煙なんてあがってないじゃないか?」。
 この子どもたちの疑問にはたぶん親たちは「昔は煙があがっていたことがあったのさ」と答えるだけですましてしまうであろう。しかしそう答えた親たちもまた、富士は昔、ほんとうに噴煙をあげていたことがあったのか、それはいつのことかと聞かれたら、おそらく窮してしまうにちがいない。
 それならば、その同じ疑問を、火山の研究に日夜努力を傾けている火山学の専門家に向けてみたら? 専門の火山学の先生も意外なほど「富士が静かに噴煙をあげていた時代」をご存じなかった。
 「かぐや姫」はあまりに有名な話であるが、ではそのほかの古典文学では富士の噴煙についてどう語られているのだろうか? この疑問から出発して、この本が生まれた。「万葉集」にはじまって、「古今和歌集」「新古今和歌集」「金槐和歌集」などの奈良・平安・鎌倉時代の和歌集、さらに、江戸時代の俳句集まで、さまざまな人が富士を詠みこんでいる。富士の噴煙は、奈良、平安、鎌倉、南北朝、そして江戸時代の初期まで、和歌、紀行文などの文学作品のかたちで、連綿と語られつづけてきた。各時代に生みだされた文学作品に現れる富士の姿を、ひとつじっくりみていくことにしよう。
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