| 田中淳夫[著] 1,800円+税 四六判並製 248頁 2016年2月刊行 ISBN978-4-8067-1506-1 自然の中で眠りたい。 遺骨を土に埋葬し、石ではなく樹木を墓標とする、樹木葬。 里山を守りたい、自然の一部になりたい、継承の手間をかけたくない、無縁墓とも無縁でいたい、 そんな人たちの注目を集める新しい「お墓」のかたちを徹底ガイド。 樹木葬を行えるお寺も掲載。 【「樹木葬」チェックリスト】 □終活やお墓について考えたことがある □石の団地のような大規模な墓地が苦手だ □墓の継承について、子供たちに苦労させたくない □寺の檀家になりたくない、宗教・宗派にこだわりたくない □墓にあまりお金をかけたくない □環境保全に興味がある □動物・植物を育てるのが好きだ □ハイキングや登山、森林浴が好きだ □身の回りのものは、プラスチックや金属より木質系が多い 1つでもあてはまった人におすすめです! |
田中淳夫(たなか・あつお)
1959年生まれ。
静岡大学農学部林学科卒業後、出版社、新聞社等に勤務の後、現在はフリーランスの森林ジャーナリスト。
森林、林業、山村問題などのほか、歴史や民俗をテーマに執筆活動を行う。
おもな著作に
『森林異変─日本の林業に未来はあるか』
『森と日本人の1500年』(以上、平凡社新書)、
『森を歩く─森林セラピーへのいざない』(角川SSC新書)、
『日本人が知っておきたい森林の新常識』
『森と近代日本を動かした男─山林王・土倉庄三郎の生涯』(以上、洋泉社)、
『ゴルフ場に自然はあるか─つくられた「里山」の真実』(電子書籍、ごきげんビジネス出版)など多数。
はじめに 墓をつくって考えたこと
第1章 お墓はいらない、のか?
地平線の見える巨大墓地
増える墓じまいと無縁墓
終活事情―自分の墓は自分で
墓に石塔と遺骨は必要か
悩みは遺骨の処理方法
樹木葬と自然葬の違い
第2章 日本初の樹木葬墓地はいま
知勝院の自然再生戦略
樹木葬が立ち上がるまで
殺到した視察と意外な反響
小平霊園の樹林墓地を訪ねる
「拡散」する樹木葬の姿
第3章 「緑の埋葬」先進国を俯瞰する
イギリス・DIY埋葬から進化した樹木葬
スイスとドイツ・埋葬は森の新たな活用法
アメリカ・埋葬地を生物保護区として保全
韓国・国主導で樹木葬地を推進・制度化
第4章 森をつくる樹木葬を訪ねて
受け入れ制限しつつ、緑地づくり・天徳寺(千葉県いすみ市)
無住寺復興と自然学校の起爆剤・真光寺(千葉県袖ヶ浦市)
宗教性を弱めたNPO法人で運営・東京里山墓苑(東京都八王子市)
古墳もある境内で森づくり・醫王寺(兵庫県福崎町)
樹木医のいるバリアフリーの墓地・正福寺(鳥取県大山町)
生前に植樹して50回忌まで・宝宗寺(山口県萩市)
高原の木立の中に開設・眞宗正信教会(熊本県産山村)
巨木を育てる千年樹木葬(岩手県遠野市)、
広大な天然林を守る佛國寺(三重県大台町)
樹木葬墓地をつくりたい人々
第5章 死して森になる
消える寺院と僧侶の危機感
荒れる里山の救済に必要な「仕掛け」
求められる樹木葬の景観
樹木葬を選択するための壁
「緑の埋葬」の理念を考える
おわりに 明治神宮の森に想う
本書で取り上げた寺院一覧
参考文献
墓をつくって考えたこと
「墓とは何か」ということを真正面から考えるようになったのは、やはり母が亡くなった頃からだろうか。
通夜、告別式、四十九日などの一連の葬儀に続き、仏壇の購入、そして墓を準備する段になった。我が家は分家なので、墓を新しくつくらねばならない。
父が仏壇の購入先に、墓地の紹介を頼んだ。すると紹介されたのは、我が家からは比較的近
いものの、車でしか行けない山の上の墓地である。
私はもともと墓地空間には興味があって、以前から近隣の墓地を散歩がてらに見学している。
その点に関しては本文でも触れるが、紹介された某霊園はすでに私の知っているところだった。
私は反射的に反対した。なぜなら、もっとも心地悪く感じた霊園だったからである。
明確な問題点があるわけではない。施設に不都合があるとか、職員の態度が悪い、といったこともない。
ただ広かったのだ。それこそ地平線が見えるかと思えるほど、延々と墓地の区画が広がる。
複雑に区分けされていたが、ほとんどの区画に四角柱の石塔(墓石)が立っている。さらに裏山を崩して新たな区画を造成中だった。
周りには緑の山が広がるのに、この霊園内は人工的で殺風景な石の風景が満ちていた。
そんな印象を父に説明して、その霊園は断った。しかし、ほかに紹介される霊園のいずれも、似たり寄ったり。
そのうち霊園一覧にありながら業者が紹介しようとしない地元の共同墓地に目が留まった。我が家から近いし、値段も安い。
何よりこぢんまりしていた。昔ながらの墓地の風情が残っている。墓参りに行きやすいからと父も賛成したので、そこに決まった。
その後、墓地の中の場所選びと管理者との契約、そして墓石の形や色、グレード、石塔に入れる文言の決定……と、億劫な手続きを踏みながら、我が家の墓は誕生した。
そして一周忌を待たずに納骨した。
しかし、正直この墓に愛着が湧いたかと言えば疑問だ。その前に立っても、歌の文句ではないが「そこに私はいません」と母に言われるような気になる。
狭い墓地の敷地内に石塔がびっしり並んでいて、落ち着ける空間とは言い難い。
今後この墓地に幾度お参りし、供花し、墓石に水をかけたり洗ったりするのか、草刈りは必要だろうか……と考え出すと、
大金を払って購入した墓にもかかわらず、私には違和感がつきまとった。
さらに子孫がいつまで墓守りをしてくれるかと想像を巡らすと、将来は無縁墓になる可能性まで連想してしまった。
そんな墓づくりの経験の中で、改めて脳裏に浮かんだのが樹木葬である。
近年雑誌や新聞で「終活」に関する記事を目にする機会が増えた。自分が亡くなった後のことを自ら決めておく活動である。
まず相続や遺品の処理方法を示し、次は葬儀が課題となる。自分なりに望む形式を記すわけだ。そして最後に墓の問題が外せない。
それらに目を通すと、事例としてはペットの遺骨・位牌と一緒に入れてくれという希望のほか、誰それと一緒の墓に入りたくないという希望もあるらしい。
さらに墓石の形や刻む文言も事前に決める。ただし、それらを遺族が実行するかどうかは……。
そうした「終活」から浮かび上がるのは、従来の葬儀や墓に満足していない、違和感を持っている人が多いという事実だろう。
背景については後で考察したいが、そんな違和感(私が抱いたものと同質のような気がする)が現在の墓地のアンチテーゼとして新しい埋葬の形をいろいろと登場させてきた。
そして新たな墓を模索する中で、樹木葬という選択肢も一定の割合で登場している。葬と付くが葬儀ではなく埋葬の仕方だ。
基本は墓標を石塔ではなく樹木にすること。墓の種類の一つとして認知され始めたようだ。
樹木のある自然の中に埋葬する行為自体は、とくに新しい発想ではないだろう。むしろ大昔なら、埋葬地が森など原野であることは普通だったはずだ。
ところが、いつしか埋葬地は森と一線を画した区画の中になった。
また消えない墓標として石塔を立てるのが一般的になり、さらに埋葬地を限定することで、石塔の林立した墓地が登場するようになる。
結果的に墓地は、自然と隔絶した空間になった。
そんな風潮の中で樹木葬が登場したのだ。ある意味“先祖返り”と言えなくもない。
私が樹木葬に興味を持ったのは、結構昔だったと思う。なぜか書棚には世界の「葬送」に関する本が幾冊も並んでいて、樹木葬の本もあったのだ。
仕事で「森林」をテーマにしていることと、もともと民俗学に関心があるから、それらに関した本が目につくと購入していたのだろう。
ざっと目を通すと、世界中にはさまざまな埋葬の仕方がある。いや、埋葬しない方法もある。
大別すると、そこに故人が存在したことを記憶するべく遺体や遺骨などをなんらかの形で残したり埋葬地に墓標を立てる(場所の特定のほか、故人の素性を伝えるため)ものと、
逆に遺物も場所も自然に溶けこませ消してしまうものに分かれる。
前者は、たとえば遺体をミイラとして保存するとか、防腐処理をして生前の姿を保つものがある。さらに埋葬地に、たいてい石造の墓標が立てられる。
そこには埋葬者の名前のほか、生前のはじめに 墓をつくって考えたこと事蹟などが刻まれる。
後者は、墓標を立てない埋葬や散骨、それに風葬や鳥葬なども入るだろうか。遊牧民族は、かつては草原に遺体を置くだけ、せいぜい埋めるだけで墓をつくらなかったと聞く。
樹木葬は、遺骨を埋葬した場所に墓標として樹木を植える、あるいは既存の樹木を墓標として周辺に埋めるという方式を取る。
墓標があるのだから当初は前者にあたるが、樹木は生長して姿を変えるし、さらに年月が経てば枯れて消える。つまり時間とともに後者となるわけだ。
二つの分類の中間にあるのかもしれない。
亡くなって日の浅いうちは、故人がどこに眠るのかわからなくなるのは遺族にとって寂しい。埋葬場所を訪れて故人に思いを馳せることで癒される。
しかし、歳月が経ち故人と縁のある人がいなくなっても墓だけが残ることを望まない場合、自然に溶けこんでいくのは悪くないと思えた。
加えて私は、埋葬地が森になるという発想が素敵に思えた。人が死して木になり森が生まれるという点にロマンを感じるのだ。
そこに魂が樹木と一体化するイメージが湧く。自然物に神性を感じる日本人の感性に近いのではないか。
考えてみれば、神道の基本は先祖崇拝と自然崇拝であり、その要である神社にはたいてい鎮守の森がある。森そのものを御神体として祀ることも少なくない。
この「鎮守」という言葉は、(魂を)鎮めて守るという意味だから、森はもともと死者(先祖)の魂を祀り、遺族を慰めるためにあると言えなくもない。
言い換えると日本人の深層心理には、死して森になりたいという願望を秘めているのではないか……。
その後日本に根付いた仏教の死生観も、そうした自然に溶けこむ発想と違和感なく共存したように思える。
神道と仏教はゆるやかに結合して、神仏習合と言われる独特の宗教観が生み出されたが、それは死と自然を近しいものと捉えた日本人の心象に焼きついているように思う。
……そんなことを考える中で、もう一つ感じたのは、埋葬地としての森の可能性だ。
森の中を散策したら心がなごんだ、ストレスが消えた、体調がよくなった、などは誰もが感じているだろう。
心理的な検査や医学的なストレスホルモンの数値でも確認されている。それは森が癒しの場になることを意味する。ならば森に葬られることは、究極の癒しにならないか。
遺族にとっても、葬った場所が森ならば墓参りすることが森林浴となり、樹木が芽生えたり生長したりする姿を目にすることが、故人を想っての癒しにつながるだろう。
樹木を魂の転生の象徴と捉えることもできる。
さらに森を埋葬地にする、あるいは埋葬地が森になれば、そこは神聖な場所となる。この感覚を生かせば、森林の保全にもつながるのではないか。
森の水源涵養機能がどうの、生物多様性と遺伝子資源がどうの、あるいは二酸化炭素吸収源としてどうの……
などと森の重要性を訴えるより、森は愛した人の魂の眠る聖地というイメージを抱くほうが森を残す動機になりやすい。
樹木葬が広がれば、埋葬地という聖地が森林保全の役割を果たすかもしれないと思いついたのだ。
そこで調べてみると、樹木葬に類する埋葬法は世界中に登場しており、多くは自然保護と結びついていた。
各国の新たな埋葬の仕方は、細部に違いはあるものの、埋葬を自然環境の保全に生かすことを目的の一つに加えている。「緑の埋葬」という呼び方も使われていた。
緑というのは樹木を指すだけでなく、環境に優しいという意味も含むのだろう。
もしかしたら、世界的に埋葬法の転換期を迎えているのではないか。日本の樹木葬も、「緑の埋葬」の潮流に乗っているのでは。
そう考えると、単なる埋葬方法の変化に留まらない。世界的な時代の変化なのかもしれない……。
そこで日本の樹木葬の現状を知るとともに、世界の「緑の埋葬」とはどんなものなのか、さらに自然を守る埋葬法とは何か、という視点で追いかけてみることにした。
最初に日本の墓地状況や歴史的な変化を追うとともに、日本で最初に樹木葬を開始した岩手県の知勝院とその後の状況を報告したい。
次に世界に広がる「緑の埋葬」事情と、日本で森になる樹木葬を行っている寺院・霊園を訪ね歩いてレポートする。
そして最後に樹木葬が増える背景と意義、そして可能性について考えてみたい。
なお各地の事例には、さまざまな形式があり、樹木葬という言葉を使わないところも多い。
だが、ここでは混乱しないように全体を通して「樹木葬」という言葉を使う。その分類などは改めて行いたい。また「緑の埋葬」という言葉についても、後に改めて考察する。
新たな墓をつくる必要に迫られている人、死後も好きな自然に包まれたいと思っている人、
そして樹木葬の墓地をつくりたいと考えている人にも、参考になる情報と意見を示せたら幸いである。