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人間と自然を謳う

【内容紹介】本書「高橋先生の絵の世界---長塚安司」より


 妻と一緒に展覧会場へと向かった。そして、そこには私の想像を越えた素晴らしい先生の絵の世界があるのを知った。それは素人の絵ではある。しかし、素人の域を遥かに越えている何かがある。が、玄人の絵ではない。しかし、玄人にはない、何か、人の心に訴える強い何かがある。それこそ素晴らしい先生の世界なのだ。
 絵を前にして、驚き、そしていろいろと考えさせられた。
 絵の最も基本的なものは写生である。それは絵を習うときに、まず物を写し取ることから始める場合が多いという意味でも、また、写生画は理屈なく、誰にでも享受できるものであるという点からもそうである。
 写生をするということは自然主義の絵画の世界に属するとも言える。堅く考えれば、デッサンをすることになる。物を写し取る、難しく言えばそのものの存在を絵画の中に創造するということなのであろうが、ここではごく普通に物の形を写し取るといっておこう。写生する対象物を写し取るにはまずその外形の正しさが大切である。次に、その対象物の外形を構成しているそのものの内部の仕組み、構造を考えなくてはならない。例えば、人体を描く場合、人体の外形の正しさ、美しさを描き出すことになるが、解剖学的に骨や筋肉が外形とどう結びつくかを調べることも必要となる。画家が物を描くには目と手が自然に物を捕え、それを描くように訓練する必要がある。その訓練の中には、遠近法、透視画法、明暗法といった描法の理論も踏まえる必要がある。写生するには客観的見方が必要であり、そこには科学的な目があるというになる。
 美術大学で絵を学ぶ学生たちがややもすると忘れがちになることの一つは、明暗法、遠近法、解剖学を最初に考えつき、それを追求し、絵画に持ち込んだ人がいたということなのである。つまり、絵を描くにあたって、工夫をし、創造への足掛かりを最初につけた人がいたということである。絵を描く者がいつもそうした立場に立っていられるのかが大切である。教えられることがしごく当然のこととしてコロンブスの卵を忘れてしまっている。最初に考え出した人は、それが形になる、あるいは完成されていく、そこに物の創造の喜びがあり、一枚一枚の絵の中に飛躍があり、その喜びや飛躍が観るものの心を打つのだと思う。
 高橋先生の絵の一枚一枚にはコロンブスの卵が潜んでいる。高橋先生の絵にはいわゆる正しい遠近法とか、明暗法はない。その点で素人とも言えるが、物の形では、その外形とそれをそうさせしめている内部の構造といったものの組立を考えるところに、物を描く工夫、物の形が内部とどう呼応して成り立つかという工夫がなされている。そこに一枚一枚の絵を丹念に描く、決して疎かにしない態度が生まれる。物を描くもの達が必ずいるべき場所に先生は常に立っている。時には思った形にならないもどかしさがある。辻褄の合わない絵の亀裂がある。しかし、手を緩めることなく、常に描ききる執拗さがある。玄人といわれる人たちの絵には効果を狙った簡略があり、遊びがあり、独りよがりの満足さがちらちらする。先生は絵の原点に立っている。写生画本来の姿を見せてくれる。
 高橋先生の絵のどの絵にも常に発見があり、工夫の喜びがある。更に、先生の絵に引きつけられるのは対象への厳しい目である。それは科学者の眼なのだ。どんなわずかの変化も見落とさない科学者の眼、というよりもそれは医者の眼でもあるのだ。そこにまず先生の絵の基本がある。一枚一枚を丹念に描く原動力がそこにある。気分で描かない。向こうを張って観る者を喜ばせようなどと邪な考えは起こさない。写生画の本来の姿がそこにある。
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