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沈黙をやぶって 子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言心を癒す教本

【内容紹介】本書「はじめに」より


 この本はいままで公の場ではほとんど語られることのなかった、そして認められることのなかった「子どもへの性暴力」を証言し告発する女性たちの声のコレクションです。叫びをのみこみ、涙をこらえて、自分以外にしがみつく者もいないまま過ごした数限りない沈黙の夜からの声です。このアンソロジーの筆者たちはささやき声で、泣き声で、怒りの声で、長かった夜の無言を突き破ったのです。
 性暴力が他の暴力形態と異なる特性のひとつは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙。そして被害者が語れない環境をつくり出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。
 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬にかまれたと思って忘れなさい」とたいしたことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう。
 だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っているかぎり加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じつづけることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです。

 性暴力を受けた子どもたちは声を持っていません。彼らは診断され、尋問され、統計の数の中に組み入れられ、ケース研究の一例にとりあげられることはあっても、彼らの生の声の中に圧縮されたほとばしる生命力が認められることは稀です。彼らのうち何人が他の誰のためでもなく、自分自身のために過去の体験を語ったでしょうか。この本に収められた文章の筆者たちは、たんなる告白体験録を綴ったのではなく、暴行体験を生き延びた今ある自分をいつくしみ、愛するためにこそ、あえて忌わしい過去の記憶を辿る、つらい作業を試みたのです。

「だけど、なぜこうも暗いテーマの本を出すのさ」
「子どもへの性暴力なんて陰湿なテーマに何年も取り組んでいてやりきれなくならない」
 友人、知人からそんなコメントを受けたのは一度だけではありません。八年間それを仕事にしていたという職業意識以上の何かが私をこのテーマに関わらせつづけているのです。性暴力の出来事それ自体はたしかに暗く陰湿です。けれど、私をこのテーマに関わらせているのは出来事そのものへの関心ではなく、性暴力を受けた人びとが、その生の深い痛みから自らを解き放っていく歩みの一歩一歩への共感にあるのです。
 もしこの本を読んで陰湿なやりきれなさだけを感じた人がいたら、それはその読者の関心が暴行だけに限られていて、暴行を受けた人が、もう一度晴れやかに生きようと願望している命の動きにおよんでいないからなのです。
 ここに収めた手記を読みながら私は幾度も宮沢賢治の詩「春と修羅」を思い起こしていました。
 宮沢賢治にとって「修羅」の意識が何であったのかの考察は、賢治研究者か仏教研究者にまかせるとして、賢治は性暴力体験者たちの修羅の心をいとも美しく優しく謳い上げてくれるのです。いかりのにがさ、また青さを唾しはぎしりゆききする彼女たちの姿が手記を読むと浮かんできます。異邦人の烙印を押された子どもが、その烙印を人に見られないように終始気を使いながら生きていく辛さです。周囲の人と自分とがまったく違った言葉をしゃべっている。しかし自分はその人たちの暖かい理解がほしい。しかし自分の悲劇をわかってくれる人などいないことは明白で、ほんとうのことを語ろうものなら非難され、さげすまれる。という出口のない疎外の闇です。
 ここから抜け出す最良の方法はひらきなおってその闇に直面すること。ただ理解してもらいたくて、受け入れてほしくて装ってきた善良で従順な少女という仮面を捨てて、性暴力体験の闇をしっかりと凝視することです。そうしてはじめて、深い生命の明るさが見えてくるからです。手記を寄せてくれたひとりひとりが、そして読者のひとりひとりが、そんなつきぬけた明るさに出会い、「おれはひとりの修羅なのだ」という一行にみなぎる力強さを手に入れることを願ってこの本は書かれました。

この本に収録した体験記の加害者は、親、親戚、兄弟、知人、教師、医師、友人、見知らぬ人とさまざまです。言葉の混乱をさけるために私は可能なかぎり「児童虐待」「性的虐待」の言葉を使うのをさけて、「性暴力」または「性的暴行」という言葉を使っています。「性暴力」とは抽象的概念の言葉で、必ずしも身体的危害、殴る、蹴るをともなう性行為を意味しているわけではありません。
 親または保護者による性的虐待は、治療・防止がもっとも困難で、友人や知人からの性暴力とは異なった対応を必要とすることは事実です。しかしだからといって親、保護者以外の者による性暴力を問題にしないですむわけにはいきません。日本では調査がなされていないので何ともいいようがありませんが、アメリカでのいくつもの統計調査では、親または保護者による性暴力は知人、友人による性暴力より頻度が低いのです。
 被害者の視点から、すなわち子どもの人権の立場から、性暴力に取り組もうとするならば、それを親、保護者による「児童性的虐待」と限定してしまうことに、私は同意しかねます。個々のケースの特殊な事情にそくして対応することは不可欠ですが、同時に、加害者が誰であれ、子どもに対する性暴力全般に共通する事実を認識しておくことも大切です。
 子どもに対する性暴力とは、暴行の程度にかかわらず、加害者が誰であるかにかかわらず、有形・無形の社会的力関係で圧倒的に上に立つ大人が子どもに対して強制し、押しつける性行為であると定義できます。この本の中で私が「性的虐待」という言葉を使う場合は、この「性暴力」の定義とまったく同じ意味をもつ言葉として使っていることを付記しておきましょう。
 大人と子どもという圧倒的な力関係の不均衡、男と女という力の不均衡が容認されている社会には、性暴力は、たとえ目に見えず、耳に聞こえなくとも、おびただしい数で起きています。力を有する者が力を持たない者を利用することが大手を振ってまかり通っている社会のその構図を見据えたとき、はじめて性暴力の被害者たちの怒りと苦痛の声が、沈黙の闇からふきあげてくるのを見、聞くことができるでしょう。
 今もなお声なき淵に沈んでいる日本の性暴力の現実は言葉をもっていません。「児童虐待」という語のきわめて限定された定義に入らない子どもへの暴力は、なんという名をつけたらよいのでしょう。日本語には性器を卑語や隠語ではなく、日常会話の中で語る用語すらありません。陰茎、睾丸、腟、陰核といった語は医学用語としては使われても、日常社会で使われる言葉ではありません。性暴力を受けた子どもが、大人にその状況を細かく説明しようとするとき「男はあれをあたしのあそこに押しつけてきた」とでも言うしかないのでしょうか。
 言葉は、その言葉が使われる文化と社会の鏡です。性暴力について語るための用語や概念が存在しないということは、性暴力が日本の社会で長く無視され、誤って理解されてきた歴史と現実を如実に語っています。
 性暴力にかかわる言葉を被害者の視点から定義しなおし、確立していく仕事は、日本では今はじまったばかりです。その仕事の主体となるのは、心理学者ではなく、犯罪学者ではなく、弁護士ではなく、評論家ではなく、性暴力を体験した人たちにほかなりません。性暴力の体験者、あるいはその立場に100パーセント立てる人こそが、性暴力の本質をもっともよく知っているのです。
 人生のネガティブに汚点でしかなかったその体験は、それを語り、意識化しようとするプロセスの中で、その人の強さの拠りどころとなり、その人の存在の核ともなります。語りはじめること、いまだ存在しない言葉を捜しながら、たどたどしくとも語りはじめること。語ることで出会いが生まれ、自分の輝きを信じたい人たちの命に連なるネットワークができていくでしょう。
 ひとたび沈黙を破ったその声を大きく広く、日本の社会のいたるところに響き渡らせていく大きな流れのムーブメントの担い手に、あなたも加わりませんか。
【内容紹介】本書「あとがき」より

 小学生のころ、家の庭にある大きなビワの木に登って一時間でも二時間でも座っていることがよくありました。気に入りの枝があって、そこに座ると、とたんに心がいっぱいに開いていく解放感に満たされるのでした。流れる雲と、空と、木と、風と、鳥と、蟻と、話したり、笑ったり、ただ見つめあったりしていたそのころの私は、自分の内なる“自然”を思う存分にあふれさせていたのでしょう。
 心の傷を癒すことは、誰もの内にあるこの混沌とした豊かな“自然”にいのちを吹き込んでいくことだと思うのです。何者かに成ろうと懸命に励んで知識や技術という服を幾重にも着こんでいくのではなく、逆に着ぶくれしている服を一枚一枚脱いでいき、自分の生命力の源に触れることです。裸足で地面をしっかり踏みしめ、大地の生命力を吸い上げることです。
 大人たちの虐待行為は子どもたちに対してだけでなく、大地に、熱帯雨林に、海に、河に対しても行われています。ナバホ・インディアンのおばさんが私に語ってくれたことばが忘れられません。
「この大地は私たちの母、地上の生き物は皆彼女の子どもたち。いま、彼女は苦しみあえいでいる。人間という放蕩息子たちの虐待があまりにひどいから。彼らは核燃料の原料となるウラン鉱を採掘しにインディアンの土地に入ってくる。ウラン鉱は大地の背骨です。その骨をえぐり出されて大地は苦痛に身をよじって泣いている。あなたにはその叫び声が聞こえるだろうか。」
 人間のいのちの本質はやさしさにほかなりません。やさしさとは私の生の鼓動と他の生の鼓動とが響きあうことの喜びです。大地の身をよじる泣き声に耳を傾けることです。いま世界中で自然の生命力が呻き声をあげています。その中には人間の子どもたちの声も混っています。この本はその子どもたちの声に大人たちが耳をそばだてるようになることを願って書かれました。
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