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生きているヒロシマ

【内容紹介】本書「はしがき」より


 ヒロシマはようやく完本になった。1958年にだした「ヒロシマ」と、その後、撮影した「憎悪と失意の日日」を、今日的な立場から新しく構成したのが、この「生きているヒロシマ」である。
 前半でとりあげた人びとは今日から数えると二十年前になる。だから「ヒロシマ」の人びとは殆ど生存していることが望めないほど縹渺たる遠い過去になったのである。何遍も何遍も瘢痕植皮の手術を繰り返しては、如何に頑健な人でも今日まで生きていることは望みがたいように思われる。
 しかし「憎悪と失意の日日」にとりあげた人びとは、恐るべき頑健さをもって瘢痕植皮の手術にもたえるし、陰陰たる白血病にもめげず今日なお健康な人にも負けず頑張って生きているのだ。
 ぼくはこの人びとを思うとき、病苦にたえる根強い精神力を尊敬せずにはいられない。こういうように写真が一枚、二枚、載ることすら精神的にたえがたい汚辱を感ずるであろう。しかしこの人びとはそんなことは屁ともしない根強い生活力を今日なお、もっていることを、ぼくは祈らずにはいられない。
 被爆者はあと何人残っているであろうか。一年、二年、その数は年々少なくなっていくであろう。何故ならば、人は病気によっても命を失っていくのだ。何年後には被爆者は何人というほどになるであろう。それは目に見えている事実だ。その被爆者が如何に少なくなろうとも、この「生きているヒロシマ」一冊にもられた事実は、もはや何年たとうとも消えることはないであろう。憎悪と失意の日日は、いつまで続くのであろうか。ああ。
【内容紹介】本書「はじめてのヒロシマ」より

 1957年7月23日午後2時40分着の急行「安芸」で、ぼくは生まれてはじめて広島の土を踏んだ。
 「週刊新潮」のグラフを撮りに行ったのだった。職業写真家であるぼくは、いわば「商売」のひとつとして行ったのだった。その限りにおいては、ぼくが広島へ行ったことなどは、なにも取りたてて言うほどのことはない。ただその後に、カメラを手にする人間としての、使命感みたいなものに駆り立てられて、憑かれたように広島通いすることになったという点で、またその結果こういう本を出すことになったという点で、その日はぼくの生涯にとって忘れがたい日となった。
 広島に原爆が投下された1945年8月6日は、それ自身として明白な過去である。ぼくたち自身も「ヒロシマ」は、もはや過去のこととして忘却の彼方に置いてきた。なぜなら、現代に生きるぼくたちは、マス・コミュニケーションの中に含みこまれてしか、ものを知らされることも、ものを考えることもできなくされているからである。13年前の古い出来事である「ヒロシマ」は、今日ただ今のなにかに結びつかない限り、今さらマス・コミュニケーションの中に姿を現わすことはない。かりに月に1度か2度「原爆症でまた死ぬ」という見出しが新聞の社会欄に小さく出ていようと、その「広島初」の数行のニュースからなにが読みとれるというのか。ながわずらいの病人がついに死んだとて、大した不思議はない。ただそれが原爆症だったというだけではないか。それは「またか」と思わせるだけで、その数行のニュースが意味する「現実の重さ」を読みとるなんの手がかりも、ぼくたちには与えられていなかった。
 その上、ビキニ環礁、エニウエトック島、クリスマス島、ネヴァダ、シベリアと相次ぐ大規模な原水爆実験、原子力発電、大陸間弾道兵器、人工衛星などのニュースは、13年前の「ヒロシマ」などは、いよいよもって素朴きわまる「原爆の古典」に追いやってしまったのである。歴史の大きな激動を反映するマス・コミュニケーションに巻き込まれて、ぼくたち自身が「ヒロシマ」を忘却のかなたに置いてきたとしても、なんの不思議もないかもしれない。
 しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというより、実は初めからなにも知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。焼夷弾で焼き払われた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪痕は消えずに残っていた。それは年頃になった娘たちの玉の肌に、消せども消えないケロイドとして残っていた。それは被爆者の骨髄深く食いこんで、造血機能を蝕み、日夜、数万の人びとを白血病の不安にさいなんでいた。それは13年前の被爆当時よりはむしろ陰険執拗な魔性を人間の上にほしいままにしていた。
 「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや正確には、知らされなさすぎたのである。
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