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斎藤公子の保育論 【内容紹介】本書「本文」より | |||
これは大事なことですが、障害児教育は、先生が重荷だと思ったら、もうだめですね。うちの職員集団でも、よほどみんなで学習しあわないと、障害をもつ子が重荷になります。先が見えなくなるからです。いつもたえず学習をしている人たちはマカレンコがいうリスク、つまり冒険にいどんでくれるのです。 この学習の1つは、根本的なものの考え方で、人間はすべて生まれながらにして平等だ、障害をもつ子どもも、一個の人間として尊重される権利がある、対等の権利があるんだ。---というと同時に、常に新しい科学、医学の発展に目を向けての学習です。また全国の実践者と交流して、情報を集め学びあうのです。 きちんと科学的なものの見方を身につけると、障害児はいやだという考え、遅れている子はいやだという差別感がなくなると思うのですが、そんな気持ちはないないと言っていながら、心の隅にわいてくるんです。 一人ひとりの子どもを、みんな平等にかわいがるというのは、むずかしいことでしょうが、これができないと、本当は保育者は務まらないのです。でも、そういうテストはできない。ペーパーテストで保母資格を取って、保母さんは入ってくるわけです。 また科学的な方法がわかっても、真のヒューマニズムをもたない人では育たないと思います。科学とロマンが必要ですね。道筋だけわかったから、あるいは医学的な処置をしたから、薬を飲ませたから、ボイタの訓練をしたから、ホラ、何をしたからといったって、育たないと思います。同じ環境においても、育てる人によって違いが出てきます。 先生が、差別せずに、弱い子とか障害をもつ子をいたわる。そして介助も、ひとりでやれることまでやってやるのではなくて、やれることはちゃんとやらせるけれども、やれないことは要求せず援助する。こういう先生の中で育った集団というのは、たいへん思いやりがあって、介助も上手なんです。小学校に行っても、みんなそうします。先生の人柄とか、やり方が子どもにうつっていくというか、模倣されて、受け継がれていく。そういう経験を一切していなかった子どもは、いろいろな障害をもつ子どもと一緒に暮らすのをいやがったり、また、どう介助したらよいかわからないので、ただみているという状態です。小さいときから一緒に育ち、まわりの大人の介助の仕方をみているとおぼえるのですが。幼年期に障害児と共に育ち合う経験をもたないできた子どもは、たぶん、おとなになっても、どう対処していいかわからないし、いやがると思います。ですから、小さいときに障害児と共に暮らすことのできる子どもは、かえってしあわせということになりますよ。 | |||
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