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犬と狼

【内容紹介】本書「序」より


 私が犬とともに狼等の野生の種族をも実際に飼育し、犬科動物の研究に専念するようになったのは昭和五年の秋からで、私はこの時、幼年時代から持ちつづけていた犬に対する愛情をさらに科学化し、生涯の仕事の一つとする道へもはいったのである。
 当時私はしばしば単なる猟奇人として見られ、思わぬ誤解を被るようなことさえあったが、時日の経過とともに、人類文化の一面に重大な役割を有する「犬」の基礎的研究に進もうとする私の熱意は、ようやく了解されるにいたった。けだし、近縁の動物との比較検討なくして、犬の実体は決して把握することができないからである。
 いうまでもなく、犬化動物の研究は特別に新しいものではなく、家犬の祖先の探究というようなことも、多くの先覚によって真剣に試みられてきたのである。が、従来のそれは概して形態的方面の論究に片寄り、生態的方面の観察にはなお遺憾の点が少なくなかった。というのは、その対象とする野生の種族、狼、ジャッカル等は敏速な夜間の活動を常とし、自然の棲息地において観察するのが困難をきわめるばかりでなく、これを孤独な拘束状態に移せば、肝要な群棲する本然の習性を見ることのできぬという不利不便に遭遇するからである。そこで、残された唯一の道は、ともかくも、できるだけ多数の動物を、できるだけ自然の状態で飼育するということに帰するのである。
 私の採った方法が必ずしもこの条件に適合するものとは思えないが、しかし、少なくも、それに近からんとして努力したことだけは事実である。すなわち、数頭の動物を一定の区画内に放し飼いにするようにしたのである。そして特記せねばならぬのは、この飼育観察によって、私は、多数の旅行家ないし狩猟家が単に敵として外側から眺めていたものを、かえって友としてその内面まで知りえたという一事である。これはまさしく、この方法の恩恵と勝利であり、同時にまた、私の日常、動物に対して抱きつつある感慨とも一致するのである。
 全編を便宜上「手記」「随筆」「考証」「研究」の4部門に分けたが、その間にはおのずから一貫した意図が流れているので、本質的にはむしろ同一系統のものといって差し支えない。すなわち、一見、文献の領域にあるような「考証」の類でも、その基準とするところはまったく生態学的事実であるのとともに、単に学術の報告書にしかならぬような「研究」の類にも、その表現には文学的様式が用いられているのである。一口にいえば、各部門ともみな科学的な内容を文学的に表現しようとする、動物文学としての所産にほかならないのである。とはいえ、これらはいずれも統一ある労作への過程における断片であり、まだ決して完備したものではない。未完結のものが数編に及ぶのも無論そのためで、また発表の時期および形式の関係から、多少の文体の相違、内容の重複等が生じたのもやむを得ない。
 なお動物の種類は、犬、狼、ジャッカル、タヌキ等の犬科のものの外、ハイエナ科、麝香猫科、猫科、熊科のものにも及んだが、これらの多くは、犬科との対象の必要から一時私の身辺にいたものなので、主題の「犬と狼」の妨げにならぬ程度で取り入れておくことにしたのである。
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