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孫文 百年先を見た男 【内容紹介】●本書「はじめに」より | |||
孫文は、共産党支配下の中国でも「革命の先駆者」と仰がれてきた。中国5000年の歴史のなかで、前“王朝”の支配者がこれほど敬意をもって処遇された例はほかにない。革命家としては、それほど成功したわけでもなかった孫文の肖像が、建国の父とされる毛沢東とともに、最も晴れがましい場所に掲げられるのはなぜだろう。 理由のひとつは、孫文と中国共産党との関係にある。中国が列強の植民地状態に転落してゆくなかで、晩年の孫文は社会主義国・ソ連との提携を受け入れ、中国共産党員が個人の資格で国民党に加わるのを容認した。のちに中華人民共和国をになうことになる当時の共産党幹部たちは国民党に入り、国の統一をめざして孫文の指導のもとで軍閥とたたかった。毛沢東は1927年の国共分裂まで4年間、国民党の中央執行委員候補、中華人民共和国の発足から27年間首相をつとめた周恩来は、孫文が軍幹部養成のために作った黄埔軍官学校の政治部主任。のちに改革開放路線を展開することになるトウ小平は、国民党に合流した軍閥、馮玉祥のもとで、孫文の号にちなむ中山軍事学校の教官をつとめた。 理由はそれだけではない。孫文は民族、民権、民生からなる三民主義の実現を訴えた。これはリンカーンのゲティスバーグ演説にもられた民主主義の三つの定義にも通じるものだが、異民族支配と外国の侵略にさらされた当時の中国人にとって、救いの呼びかけとなった。中国は今、国内の諸民族間の平等をうたい、香港、マカオの返還を実現して植民地時代を終わらせたが、三民主義が掲げた国民の政治的諸権利の確保、平等の原則に立つ経済の健全な発展といった目標が、完全に実現されたとはいえない。孫文は、多忙な政治家としては信じられないほどの熱意をこめて、中国が達成すべき産業や交通、通信、文化建設にいたる近代化の詳細な青写真を描いた。その事業は、彼の死後三つの四半世紀を経たいまも、まだ緒についたばかりなのだ。 北京政府は「一つの中国」の原則を掲げ、台湾統一の実現をめざしている。その台湾を支配する国民党も、党と中華民国の創立者である孫文を、当然のことながら「国父」と呼んでいる。この台湾に対し、孫文の大きな肖像を中国の中心、天安門広場に掲げることによって、北京は「本家はこちらだよ。台湾は我を張らずに早く帰ってきなさい」と呼びかけているのだ。これも、国慶節に孫文の肖像画が登場する理由の一つである。 1924年末、神戸に立ち寄った孫文は「大アジア主義」と題する演説で、覇道と絶縁し、王道の文化を築くことを呼びかけた。孫文はその翌年に死去したが、その後の日本がこの忠告を聞かず、アジア侵略にのめり込んだのは否定できない事実だ。他方、いまなお世界では力と物質万能主義に頼り、自己中心の利益を追い求める覇道が横行している。孫文は、はるか未来を見通して日本や世界に警告を発したといえないだろうか。 晩年の孫文は、経済建設の方法としての社会主義に理解を示しながらも、階級闘争を「社会の病気」とみなし、それを社会改革の手段として評価することには真っ向から反対した。中国の伝統思想に立って調和を重んじ、平和的な方法で社会を豊にする道をさぐり続けた。このような孫文の姿勢は、当時のコミュニストたちから「古くさくて、幼稚」と批判されたが、レーニンや毛沢東に代表される階級闘争至上主義の影が薄くなった今となっては、本当に新しかったのは孫文の方ではないだろうか。 私がこの小著の題で、孫文を「百年先を見た男」と呼ぶ主な理由は以上の通りである。孫文の没年から百年後といえば、2025年だ。トウ小平は「20世紀末に“小康”状態をかちとったあと、さらに30年から50年間かけて先進国のレベルをめざす」と語った。2025年前後は、その第一の関門にあたる。この年はまた、中国の人口が16億に達すると予測され、外国の学者は大規模な食糧不足を懸念する。課題も少なくないひとつの分岐点だが、この時期にいたるまでの中国、そしてアジア諸国が何をどのようになすべきかは、百年前の孫文の視野にしっかりととらえられていた、と私は思う。孫文がいまの中国の経済改革、対外開放の路線を見事に先取りし、多くの提言をおこなっている事実については、本文のなかで述べることにしたい。 孫文を、ごくありふれた政治家のように描こうとする本もでているが、私はそうした見方に賛成しない。孫文の言動や著書に見られる驚くべき先見性にまず注目し、なぜそれが可能だったかを考えてみたいのだ。1999年も押しつまって北京を訪れた際、ジャーナリスト出身の古い知人に孫文と近代化路線との関わりについて見解を聞いてみた。その人は「その通り。孫中山先生(中山は孫文の号)は中国近代化にとって重要な存在だ。現代化建設の事業は孫中山、毛沢東、トウ小平と受け継がれ、いまは江沢民が担っている」といっていた。やや公式的だが、そんな見方もありえよう。 しかし、大きな肖像がかざられる中国でも、さまざまな理由から、孫文は人びとにとって実はそれほど身近な存在ではなくなっている。日本の孫文研究科の一人は、「マゴフミって、どんな人?」と大学生に聞かれた、と嘆いていた。孫文は何を考え、何を訴えようとしたのか。人としての短所や欠点も含めて、あるがままの生活と足跡をたどりながら、彼の思想と行動が、現代にあってどんな意味を持っているのかを追ってみたい。 | |||
【内容紹介】●本書「あとがき」より | |||
20世紀は革命の世紀であったと同時に、革命失敗の世紀でもあった。ロシアと中国の社会主義を指導したレーニン、毛沢東はたしかに大きな存在だったが、彼らと違う形で人類の前進への道を示した人たちもいた。孫文はその一人である。しかも、マルクスの階級闘争至上主義にひそむ欠陥を、いち早く大胆に指摘した先覚者でもあった。かえりみると、私の経験として述べたように、毛沢東を多く読み、孫文にあまり学ばなかったのは、この世紀に起きたできごとを理解する上で、それほど賢明な方法ではなかったようだ。 こうした反省もこめて、孫文の持つ現代的意義を、私なりに追求してみた。20世紀には、一見はなばなしい社会運動や革命のかげで、多くの悲惨なできごとが続き、知性の後退さえみられた。それらを正視して、これからはアジアと世界、そして日本についての偏らぬ認識を、と心がける人たちに、この小著が何らかの参考になれば幸いである。 | |||
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