書誌情報・目次のページへ 書評再録のページへ 読者の声のページへ
不知火新考

【内容紹介】本書「序文……中村純二氏」より


 私も小さい時から、虹、稲妻など大空の光学的現象には大変惹かれ、山に登った時、ブロッケンの怪やひとだまに遭遇してからは、それらの原因を何とか知りたいと思うようになっていた。その延長として、昭和31年からはオーロラ観測のため、南極に出かけることになったが、昭和基地での緑の太陽や幻日、真珠雲、蜃気楼、あるいは流星による大火球など実現するに及んで、その気持ちは益々強められた。
 しかし不知火については未だ見たこともなく、私が高校生の頃、寺田寅彦のScientific Papersを読み、上下に気温の逆転層があると、やがて二次的な蜂の巣状の細胞渦動を生じ、これが微風で揺り動かされて、流れ火の原因になっているのではないかとの説明に、済ませていた。

 当時、研究室には、かつて私の夜光に関する演習に参加していた磯部八郎君が時々出入りしていたが、同君は立石さんの不知火実験に大変な興味を持ち、1975年頃には進んで協力されることになった。他には平凡社の若い社員の方も何名か加わり、実験は相当活発に行われるようになった。
 1984年、私が停年退職した時、実験装置は立石邸に移されることになった。このため私自身は少し実験から遠ざかることになったが、この頃、立石さんは、不知火現象にとって、視線方向に吹く微風が重要な役割を果たしているらしいことに気付き、熱板上のダクトに電気掃除機で風を送る実験を精力的に行なっておられた。その結果、十数秒の間、静かな二次元的層流群を生じ、蜃気楼的光点である盛り火が、二箇乃至三箇に分かれる分火の実験的証拠が得られることになった。

 今回これらの成果が一つの書物にまとめられたことは誠に喜ばしく、完全ではないにせよ、現時点における不知火現象に関する一つの総合的な解釈が与えられたものとして、評価できよう。
 成果の第一は、景行天皇の火邑伝説や、万葉集における筑紫に対する枕詞としての「しらぬい」等は、いわゆる完全な不知火現象と直接結びつくものではないことが明らかになった点である。
 第二は、親火が蜃気楼現象によって盛り火となった後、視線方向に吹く微風によって分火し、これがさらに激しい流れ火や飛火など水平方向に移動する離合火に発展する現象を、普通名詞としての「不知火」現象と定義し、不知火海以外においても、不完全ながらこの現象の見られることはあるとの提案のなされた点である。
 第三は、複雑で広域を必要とする天然現象であるため、実地測定がもっと行われて実験との比較が検討されなくてはならないが、少なくとも定性的に分火に必要な、十数秒間の鉛直空気レンズの形成を実験的に確かめた点、及び、光路長が十数粁と長ければ、鉛直方向に一米当たり1〜2度の温度差であっても、角度にして十分程度の屈折は十分起こることを計算によって確かめた点であると考えられる。

 今年(1991年)の八朔(9月8日)には、立石さんらと不知火海に出かけ、海辺に立つ故谷保先生が住んでおられたお宅を基地に、ご子息の谷健二朗氏ご夫妻のお世話になって、松合の永尾神社境内から2晩にわたって不知火の観測を行うことができた。
 8日の夜は分火までしか観察できなかったが、9日夜の干潮時には、分火の後流れ火まで発達し、不知火の全容に接することができて幸せであった。その神秘さや、動きのある華麗さには、観測者としてよりもまず人間として心を奪われる有様であった。
 一方、不知火の現象は八朔だけでなく、旧暦の8月2日や7月晦日、あるいは七朔などにも現われることが確かめられた。
 「不知火」現象は干潟の位置や形、大きい潮の干満差、適当な風速で吹く視線方向の風、海面上の気温分布など、様々な自然条件が重なって初めて見られる、世界でも稀な天然の光屈折現象である。
 近年、不知火海にも埋立工事や川と海の汚染等、様々の環境破壊が押し寄せ、干潟や海水温に変化を生じ、年々不知火現象が現れがたくなってきているのは誠に残念である。
 本書をきっかけとして、不知火海の環境保全が積極的に行われ、このロマン溢れる南海の風物詩が存続し、次代にも伝えられていくことを、切に祈って止まない。

トップページへ