井上 栄（いのうえ・さかえ）

大妻女子大学名誉教授、国立感染症研究所名誉所員。1940年山梨県生まれ。東京大学医学部卒業、同大学院博士課程修了。
国立感染症研究所感染症情報センター長を経て、2001年から12年間、大妻女子大学家政学部食物学科で公衆衛生を教えながら、食物学を学ぶ。

【著書】『文明とアレルギー病--杉花粉症と日本人』（講談社1992年）、『母子手帳から始める若い女性の健康学』（大修館書店2012年）、『ノロウイルス現場対策--その感染症と食中毒〈改訂第2 版〉』（共著、幸書房2014年）、『感染症--広がり方と防ぎ方〈増補版〉』（中央公論新社2020年）、『公衆栄養学〈6 訂第3 版〉』（共著、建帛社2024年）、『次世代パンデミックに備える--感染症の文明史』（エイアンドエフ2024年）。

【訳書】E・ノルビー『ノーベル賞の真実--いま明かされる選考の裏面史』（東京化学同人2018年）、P・ヴィンテン= ヨハンセン他『コレラ、クロロホルム、医の科学--近代疫学の創始者ジョン・スノウ』（メディカル・サイエンス・インターナショナル2019年）。

まえがき 火山島の植物
ジャワ島の棚田
日本列島の自然
本書の構成

第1章 沖積平野の水田
１ 都を支えた砺波平野の米
散居村
大伴家持
ナイルデルタとの比較
都へ米を運ぶ
現代日本の米どころ
２ 木の文明
海を渡った船団
陸に上がった船
３ ジャポニカ米
適度に粘るジャポニカ米ウルチ
寿司握り飯

第2章 武蔵野台地の林と畑
１ 関東ローム層と黒土 ２ 縄文人の食糧
ドングリ食
巨大貝塚
３ 武蔵野はススキ野
野火
堀兼の井
４ 新田開発と平地林
玉川上水
平地林
５ 江戸東京の下肥

第3章 大豆――高蛋白の穀物
１蛋白質は第一の栄養素
蛋白質とは
九種必須アミノ酸のバランス
２ 和食に必須の大豆
３ 大豆食品さまざま
（１）味噌・油
（２）納豆
（３）豆乳豆腐
（４）その他
呉汁
打豆
きな粉ドリンク
大豆もやし
枝豆
４ 家畜飼料としての大豆
食の欧米化
飼料を食糧に！
５ 参考・古代文明――イネ科穀物に不足するアミノ酸を補った食材
小麦のメソポタミア文明
米の長江文明
トウモロコシのアステカ文明
ジャガイモのインカ文明

第4章 海の幸
１ 魚から摂る蛋白質と脂肪
蛋白質
脂肪
２ 魚の必須脂肪酸と日本人の健康
必須脂肪酸由来物質
脳出血
心筋梗塞
３ 魚の餌はどこから来るか？
珪藻
外洋の魚の餌
湧昇
親潮
４ 海の野菜
浅草海苔
昆布と北前船
昆布＋鰹節の旨味

第5章 清い日本酒
１ アルコール発酵
三輪の味酒
抗細菌物質タンニン
２ 黄麹菌
３ 寒造り
酒母
醪
火入れ
吟醸酒
４ 参考――紹興酒、泡盛、焼酎
紹興酒
泡盛
焼酎、甘酒、味醂
５ 酒好きだがアルコールに弱い日本人
なぜ顔が赤くなるのか？
妊婦は禁酒
飲酒と食道癌
「酒に弱くなる」遺伝子がなぜ在るのか？
楽しい「飲みニケーション」の勧め

第6章 風土と精神
１ 風土の違い――日本vs西欧
文化精神への影響
風土で異なる「夏休み」の意義
２ 火山地震の風土
天災の国
天恵の国
見えない文化

補章 土壌と肥料

１ 肥料の三要素
２ 岩石の風化
水に溶けないリン酸カルシウム
カリを捉える粘土鉱物
３ 大陸氷河が作った沃土
ウクライナの黒土
大陸氷河
西欧の畑作
４ 火山島――溶岩から生じる泥
５ 都市、屎尿、肥料

あとがき 稲の国

天災と天恵の国
風土とフード
持続可能な食糧供給

コラム
1-1 ナイルデルタでの小麦畑作
2 アジア大陸での水田稲作
    3 モチとウルチ
4 中国の米も「ジャポニカ」
    2-1 ドングリの渋抜き
    2 脚気にタクアン
    3 群馬県の水を飲む現代東京人
3-1 良質の蛋白質を含む植物食材
    2 乳癌発生を抑える大豆イソフラボン
    3 乳牛に大豆＋トウモロコシを食べさせる
    4 「世界の穀倉」
    5 ジャガイモを多く食べる国
4-1 鰹節は最も堅い発酵食品
    2 脂肪酸とは
    3 豊饒の有明海
    4 アマノリの生活環
5-1 細菌vs 真菌
    2 黄麹菌は「国菌」
    3 高峰譲吉――麹と桜
    4 メイラード反応の台所実験
6-1 和辻と大槻の出会い
    2 火山と日本神話
    3 ハンチントンによる「文明」の分類
補-1 菌根菌
    2 火山灰粒子
    3 下水処理場廃水の活用

謝辞
注・参考文献
索引

ジャワ島の棚田
ここは、インドネシア、ジャワ島中南部の山岳地帯。山腹は棚田で覆われており、その中を走る列車に私は乗っていた。1970年代の終わり、30代後半であった私は、国際協力事業団（JICA）のウイルス病診断の技術協力プロジェクトの専門家として、首都ジャカルタの保健省附属の研究所で仕事をしていた。帰国前、研究所事務職のＩ君がジャワ島南部の観光につき添ってくれ、ボロブドゥール遺跡などを見学した。帰路は、鉄道でジャワ島西部高地のバンドンを経由することにした。これは鉄道オタクの私が希望したのだ。

景色が次々に変わる。トンネルが一つもなく、線路は地形に沿って蛇行しながら高度を上げていくので、同じ場所を違った角度から何度も見下ろすことができる。水を張った遠くの水田がキラキラ輝いていたのが、次に見ると色が変わっている。私はカメラを置いて客車両側のデッキを行き来し、そこから身を乗り出して私の視野内、ましてや写真の枠内には収まらない壮大なパノラマを眺め回した。

周囲360度が水田とココヤシで、水と植物とであふれている。地元の人は、この島を「ココヤシの島」と呼ぶ。台風が来ないのでヤシは大木である。赤茶けた線路と鉄橋の色も周りの緑の景色に合っている。列車が鉄橋を渡るとき下を見ると、谷の両斜面に小さな棚田が谷底まで続いている。ここは赤道直下、太陽が真上からすべての田を照らしてくれるのだ。ここでは米を1年に3回収穫する。緑色の田と茶色の田、田植え直前の田、稲刈り直後の田が混在している。何時間乗っても見飽きない風景であった。このような鉄道は世界の他所には無い。

ジャワ島は肥沃な火山島である。昔、オランダ人はそこを植民地にしてコーヒー豆、砂糖キビ、茶、タバコなどを作らせ、ヨーロッパで売って莫大な利益を上げ、それは国家収入にも大いに貢献した。ジャワ島の鉄道は、農産物を運ぶためにオランダ人が敷設したものだ。

ジャワ島体験の翌年、タイ国の首都バンコクに約一ヵ月滞在する機会があった。そこからタイ北部のチェンマイ大学を訪問したとき、ジャワ島と同じような美しい緑の山岳風景が見られると思った。鉄道に乗りたかったのだが夜行列車しかないので、昼間の風景を見るために長距離バスに乗った。しかし、期待はまったく裏切られた--赤茶けた色のハゲ山の風景に愕然としたのだった。ジャワ島と同じモンスーン気候で雨が降るはずなのに、水田は無く、焼畑（やきはた）農業が行われていた。農作物の生長に栄養が使われて土は痩せていくので、同じ場所での農業は継続できない。

ところが、ジャワ島の棚田では、昔、肥料は使われていなかった。連作をする棚田からは、作物の肥料になるリン酸とカリウムとがタイの焼畑よりはるかに多く失われているはずだ。それなのに稲作を毎年続けられる理由は何か？

ジャワ島には火山がたくさんある。噴火をくり返す山の頂上から流れ出る溶岩と噴き出す火山灰が、水田に肥料としてのリン・カリを恒常的に供給しているのではないか！　噴火によって短期的に水田が破壊されても、長期的に見れば稲作は継続される。

帰国後、自国をあらためて見て、そこがジャワ島と同様な緑あふれる「水と火山の島」であることに気づいた。ジャワ島と違って山は杉で覆われ水田は平野にあるが、火山が日本の農業にも貢献しているのではないか。そして1986年に、未熟な内容であったが「火山灰と食べもの」というエッセーを書いた。その後に読んだ農学者の本にも、火山が肥沃な土を作ると書いてある。

日本列島の自然
日本には活火山が111もある（1万年以内に噴火した火山で、一部は現在も活動中。ちなみにインドネシアには129）。世界に活火山は約1500あるといわれるので、地球表面のわずか0・08％の面積しかない日本に世界の火山の7％もある。

日本列島は、植物の生長に適している。樹木の種（しゅ）の数はヨーロッパ全域でも100種に届かないが、日本では1000種を超える。秋に紅葉するカエデの種数を比較すると、日本では26種あるのに、北米大陸全体で13種、ヨーロッパ全土にも13種しかない。日本の紅葉は多彩なのだ。欧米で樹木の種類が少ない理由の一つは、そこが氷河期に広く大陸氷河（氷床）で覆われて植物種が死に絶えたためである。ただし日本列島で生物多様性が大きいのは、そこに氷床が無かったからということだけではない。

現在、日本の国土面積の3分の2は森林である。その四割は人工林で、杉が多い。杉は日本固有の木であり、その風土にピッタリ合った樹木である。戦後広範囲に植林された杉が年々太くなっていて、皮肉にも花粉を遠くの都市まで散布して杉花粉症患者を苦しめている。しかし世界中で森林が農地に変わっていくなかで、日本だけが例外で山に緑が濃くなっている。日本の山の土は肥沃なのだ。

植物の種類が多ければ、それに依存する動物の種類も多い。哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類のうちの約190種が日本のみに生息する固有種である（火山があるガラパゴス諸島にも固有種が多い）。同じ島国である英国の固有種はゼロである。火山、地震などによる活発な地殻変動によって異なる地質のパッチワークが出来ていて、地質環境が多様性に富んでいる。

また気候も多様である。列島の南北両端の緯度の差は25度（距離にして2800�q）もあり、かつ地面の高低差も大きい（富士山は標高3776ｍ 。ちなみに英国の最高峰スノードン山は標高1085ｍ ）。夏は北海道を除く全域が高温多湿で、熱帯並みの暑さで植物を生長させる。

本書の構成
現代人の主食は、穀物である小麦と米である。人類は約1万年前に、穀物（麦、稲、トウモロコシ）の起源となる野生のイネ科植物が自生する場所で、それらを改良して作物とした（現在、トウモロコシは家畜の主な飼料となっている）。保存、輸送できる穀物によって、人が集まって住む古代文明都市が誕生した。しかし同じ場所で農業を続けていけば、土からはリン・カリが失われてゆき、収穫はできなくなる。滅びた古代都市はたくさんあるが、その理由の一つは食糧供給が不可能になったためだ。

ジャワ島の棚田を見た体験は、私に日本火山列島の自然を見直させた。海に囲まれた火山島の降水量は多い。そして日本では、ときおりの噴火で生じる新しい溶岩が、平野の水田にリン・カリを含む泥を恒常的に補給しているのではないか、との仮説を考えた。この火山島の風土が生み出した食文化や精神文化まで考えてみよう、と本書を著した。

本書各章の内容は次の通りである。

第１章では、富山県砺波（となみ）平野の水田稲作について述べる。そこでは上流の火山・白山（はくさん）から来るリン・カリで大量の米が生産され、古代の大和朝廷の成立に寄与した。

第２章では、武蔵野台地の畑作について述べる。空に舞い上がった火山灰は台地に積もる。台地に水田は作れないが、江戸時代に畑が作られ、栽培された野菜が江戸市民に供給された。米食では蛋白質が不足する。日本人は、それを大豆（第３章）と魚介（第４章）とで補った。さらに、魚肉には畜肉にない種類の必須脂肪酸が含まれる。それが国民の健康に果たしてきた役割も説明する。

第５章では、食べ物ではないが、米から造る日本酒について述べる。他国の醸造酒には無い特徴を外国人に説明するときの参考にしてほしい。

第６章では、この火山島の風土がもたらしてきた日本人の思考・行動様式が、他国人とどのように異なるかを考察してみたい。

補章では肥料に関して考察する。溶岩から風化で生じた微粒子がリン・カリを捉え、泥として水で下流の平野に運ばれる原理を説明する。さらに、都市の屎尿（しにょう）処理についても考える。

（本書では、植物に「生長」を、その他には「成長」を使う。また、「ヒト」は人類human を、「人」は個人person を指すことにする。キーワードでない語では、漢字と平仮名を統一して使っていない場合もあることをご了承ください）

【日本食発展のカギは火山にあり！】

可耕地の少ない日本で、これほどまでに豊かな食文化が発達した理由とは？
大妻女子大学・家政学部食物学科で公衆衛生を教えてきた著者が、日本文化を彩る食の豊かさの源に迫りました。

第１章から５章までは、米、野菜、大豆、魚、酒それぞれについて「日本人の健康と豊かな食文化を支えてきたもの」という視点から解説します。
第６章「風土と精神」では、火山島という風土が生み出した日本独特の精神文化に思考をめぐらせます。
最終章では、肥料の３要素から屎尿処理の歴史まで、食の土台となる土壌と肥料について考えました。

普段口にしているものの栄養素や普及の歴史を知れば、日々の食事をよりおいしく、ありがたく感じられるかもしれません。
日本人を取り巻く食の歴史と現状をやさしく解説した本書をお楽しみください。