| 支倉清+支倉紀代美[著] 2,400円+税 四六判 288頁 2021年10月刊行 ISBN978-4-8067-1625-9 明治維新を招く社会変革の兆候は、京・江戸から遠く離れた片田舎にも起きていた。 家中人事が家柄重視から能力主義へと移り変わる様子、 財政難に陥る領主と裕福な農民の関係性など、 19世紀の地方社会の変化と闘争を、 仙台藩前谷地村(現宮城県石巻市)で 60年にわたり記された文書『山岸氏御用留』から読み解く。 |
支倉清(はせくら・きよし)
宮城県石巻市(旧河南町前谷地)の支倉家に生まれる。元東京都公立小学校長。
宮城県前谷地の支倉家と、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の大使・支倉常長とがどのようにつながるのか、
長年研究を続けている。支倉紀代美との共著書に『代官の判決をひっくり返した百姓たち──仙台藩入会地紛争』
『下級武士の田舎暮らし日記──奉公・金策・獣害対策』(ともに築地書館)がある。
支倉紀代美(はせくら・きよみ)
宮城県東松島市に生まれ、石巻市前谷地で小学校・中学校・高等学校時代を過ごす。
元神奈川県公立小学校教諭。
幼少期より、実父・本田雅童より習字の手習いを受ける。
その後、日本書学館の初山祥雲に師事し、本格的に「書」を学ぶ。
はじめに
序章 前谷地村の誕生
第1節 前谷地村の誕生
江合川の流路変更工事
新たな水源の確保
元和二年の開発許可
龍石寺宗慶の活躍
前谷地村の成立
第2節 山岸傳三郎の前谷地移封
検地の予告
前谷地村検地帳
山岸傳三郎の家中と足軽
新田開発と検地
【コラム】検地
第3節 地方知行制
武士本来の姿へのこだわり
年貢の自分取り立てと地肝入
緩い石高把握
竿外れ地の既得権化
給所の分散「散りがかり」の利点
耕作地の分散と知行の散りがかり
前谷地村の構成
第1章 鈴木家の幕末──足軽から家老に出世した「家」の記録
第1節 鈴木可能
御家老、御用前に抜擢
教育の普及と身分制の動揺
山岸、資金繰りに行き詰まる
可能、失脚
家並の言い渡し
知行「割り渡し」
仙台定府のため資金繰り悪化
可能、御用前復帰を画策
讒言で再び失脚
一味同心への処罰
旧地肝入良七と可能の一味逆心
「家柄の者」と「そうでない者」の対立
村定受普請の人足論争を経て役職復帰
四役兼役
御家老見習
【コラム】前谷地支倉と慶長遣欧使節支倉常長
第2節 鈴木貢
御用人ならびに御目付役就任
山岸家の借財整理
堀口村の給所管理
地肝入と交換した記録
質地証文
大凶年の年貢
大飢饉時の米価
貧民の犠牲
真野村集会者の取り調べ
夜半に及ぶ飢饉対策
鈴木貢、御加増
越後より米穀買い付け
村の荒廃と土地の集中
蛇田村知行所、田植え
真野村知行所、田植え
貢の病臥と嫡子可膳の名代奉公
可膳、行方不明
大飢饉以後の社会の動揺
出口をもたない民意と押し寄せる世界の波
【コラム】天保の大飢饉/『花井日誌』
第3節 鈴木仲蔵
鈴木可能82歳、養子を家督にする
御家中身分の値段
可能86歳、病死
妻を離別すべし
可平、呉れてやる
仲蔵と妻、復縁
鈴木家が起こした社会変革
第2章 西山家の幕末──「家柄の者」親子三代の苦悩
第1節 西山忠兵衛
家並と検地帳の対応関係
除き屋敷調査
拝領屋敷の住人
「家柄の者」西山家の復活
知行を地肝入に「割り渡し」
金主は三人の御百姓
割り渡した田畑
準一家の家柄
第2節 西山清右衛門
御用始め
立替金の清算
三貫文の「指し向け」、役人に届ける
「草刈御判」拝領騒動
権威主義への固執
昇進、ただし名目のみ
「御一家に準ずる着座」と「並着座」
博奕の禁令
山岸左太郎、仙台定府
御袋様への御挨拶
村の御祭礼
定府時の給所運営に関する指示
御勘気御免
番方年番
仙台往復の費用
西山清右衛門、加増
資金繰り一気に悪化
阿部紋太、金策のため江戸に上る
阿部と西山、罷免
阿部紋太、所払い
附け地召し上げの御触れと武士の窮乏
一貫文の物成、拝借金にあらず
【コラム】寛政の大一揆と金主・善治右衛門/加増/西山清右衛門と村肝入の論争
第3節 西山昌右衛門
昌右衛門、家老本役・御用前就任
昌右衛門、罷免
昌右衛門、追放
田地の二重取引
山岸、真野村・蛇田村御百姓より借金
昌右衛門在職中の不正を糾明
西山嘉馬、家中の末席に落ちる
西山家にみる封建社会の崩壊
【コラム】領主刑罰権/年貢収納は村仕事
第3章 斎藤家の幕末──激動の時代を乗り越えた近代的行政官
第1節 斎藤東馬
「家柄の者」との対立
身分相応に諸事心がける事
村定受普請論争での活躍
第2節 斎藤喜平
役人見習い
西山昌右衛門を追放
文書による行政
田を畑に変更願
困窮した百姓への支援
堀口村上地の田地、再耕作
散田に代百姓を附ける
畑年貢の減税
上地した畑の年貢交渉
孫初治、散田起こし返しにつき銘下げ要求
御家来役に御賞
銘下げ・銘上げ
百姓の田地売買
作子に耕作を許可
家来役の責任感
息子友右衛門、江戸勤番
山岸屋敷普請
地肝入の実力
陪臣と百姓の縁組
喜平71歳、病死
【コラム】銘付と年貢率/前谷地村と堀口村/江戸時代の百姓は土地所有者か?
第3節 斎藤友右衛門
「極難の御百姓」の銘下げ願
水害の堀口村百姓中へ御手当
鹿又村、年貢上納「半金半石」の願
堀口村地肝入、御賞
堀口村、新百姓誕生
前谷地村の版籍奉還
地肝入の台頭と身分制の崩壊
第4章 前谷地村の事件簿
第1節 「身上がり」御百姓清内
清内屋敷を除き屋敷と認定
斎藤清五郎へ清内屋敷を引き渡すv
年貢の清算と地境の線引き
清内跡式を立てる
第2節 除き屋敷一軒「発見」
第3節 養子縁組
婿取り
婿入り
家督養子
末期養子
第4節 家中・足軽の事件簿
酔っ払い勤務事件
喧嘩を繰り返す中間林八
林八、家督を継ぐ
鈴木利右衛門、行方不明事件
足軽の勤務不良事件
米密売事件
天保の大飢饉以来の帰郷
吉田鎌、失踪事件
妻と先夫の子への虐待事件
地肝入郷右衛門、「御家中」に身上がり
日昇、買禄の一件
支倉進、改名の一件
【コラム】戸結と閉門/一人
終章 前谷地村の明治維新
斎藤善右衛門宅、襲われる
家中の土地所有権問題
家中13人、帰農
地租改正と均田制
支倉顕蔵、木小屋建築
権力の空白期間
農民と姓
現代まで残った契約講
巨大地主、斎藤家12代
【コラム】明治四年の「水帳」
あとがき
参考文献
本書は、仙台藩士山岸の『山岸氏御用留』(以下『御用留』という)を現代語訳し、それに解説を加えたものである。
山岸は、知行高617石の無役の給人(きゅうにん)(知行を与えられた武士)である。給所(知行のある所)は桃生(ものう)郡深谷前谷地(ふかやまえやち)村(現・宮城県石巻市前谷地)、同郡鹿又(かのまた)村(現・石巻市鹿又)、栗原郡堀口村(現・宮城県栗原市志波姫堀口)、牡鹿(おしか)郡真野(まの)村(現・石巻市真野)、同郡高屋敷(たかやしき)村(現・石巻市蛇田)の五ヶ村に与えられた。
山岸の家臣団は12人(家中3人、足軽9人)。全員が在郷屋敷のある前谷地村居住であった。家臣団の人数は幕末まで200年余の間ほとんど変化しなかった。
『御用留』を記録したのは、家中筆頭の御用前たちである。現存する『御用留』は寛政12年(1800)から文久元年(1861)まで62年分である。その間、8人の御用前が書き継いでいる。
御用留とは「御用を書き留めたもの」、すなわち「公務の記録」というほどの意味である。内容的には、家中・足軽の人事に関する記録と給所支配に関する記録に分けることができる。前者では、家柄を重視する人事から実務能力重視の人事へと移行していく様子が読み取れる。後者では、山岸が1830年代の天保の大飢饉以降農村の復興を支援すべく農民とどのように向き合ったかがわかる。
なかでも「地肝入」(給所の管理を委託された百姓身分の者)と御用前との往復文書が注目に値する。地肝入が村肝入と類似の権限をもつ存在であったこと、給人の金融に深く関わったこと、年貢徴収のほか、入会山の管理も行っていたことなど、これまであまり知られることのなかった地肝入の役割が見えてくる。
山岸の家中・足軽は御用前を含めて全員基本的には農民である。こう断言すると、「陪臣も武士である」との反論があることは承知している。たしかに藩士山岸の家中・足軽は伊達氏の陪臣として武士身分を公認され、苗字帯刀など武士の特権を誇りに生きていた。行政的にも一般農民とは別扱いであり、山岸の管理する人別帳に登録され、事件を起こしたときにも刑罰の法的な建て付けが異なった。したがって、家中・足軽が法制的に武士身分であることを否定するつもりはない。
しかし、彼らの生活実態は農民とほとんど変わりがなかった。彼らは自分の家屋敷と田畑を所持し、田畑を自ら耕作し、山岸に年貢を納めていた。山岸から与えられる役料はごくわずかであり、生活の基盤は農業であった。親戚には百姓身分の者が多く、陪臣と百姓身分の者との結婚や養子縁組が日常的に行われた。仙台藩は陪臣と百姓身分の者の縁組について何ら規制をしなかった。
家中・足軽は農民としての側面と武士としての側面を併せ持つ存在であったが、研究者の多くは彼らを基本的に武士と捉えて資料を解釈してきた。『御用留』にも「御家老」「御用前」などの役職名とともに「知行」「改易」「加増」などの武家用語が頻出するので、いきおい彼らを「武士」と捉えて解釈してしまいがちになる。
ところが、「加増」されたのに「所付け」がない、「改易」になった人物が一年も経たないうちに復活する、「知行」にも年貢が賦課されるなど、封建制の常識では説明がつかない記録が多い。つまり、『御用留』を記録した御用前は強烈な武士意識から敢えて「知行」「改易」「加増」などの用語を使用したのである。武家用語を使用したからといって、彼らが武士としての実態を備えていたとはいえない。資料に即して家中・足軽の実態を観察すれば、彼らは農民と同一地平にあると言わざるを得ない。彼らをあたまから武士と捉えて資料解釈することは、歴史の真実を見誤ることにつながる。
仙台藩には1万人の藩士(直臣)と2万4000人の家中・足軽(陪臣)が存在した。したがって仙台藩の武士身分の7割を占める家中・足軽の実態がどのようなものであったか、資料に基づいて明らかにすることは歴史研究として重要であると考える。とりわけ幕末の封建秩序の崩壊過程を、家中・足軽と御百姓の関係に焦点を当てて検討することによって、社会の最底辺から身分秩序が崩壊していく事実を明らかにしたい。
『御用留』は、仙台藩北部一帯で起きた寛政の大一揆(1797年)の直後に書き始められた。仙台藩は米を藩の専売品に指定し、年貢納入後農民の手もとに残った徳作米(余剰米)も藩が安値で強制的に買い付けて江戸で高く売り払い、財政赤字を補填した(買米制)。仙台藩北部一帯が買米制の対象地域とされたため、同地域の疲弊が甚だしく、農民の不満が爆発したのが、寛政の大一揆であった。
ちょうどその頃、山岸家当主・孫一も農民からの借金が膨らんで、財政運営の「改革」を迫られていた。藩では一揆勢の要求を受け入れて郡村役人を一斉に更迭して、農政改革を村々に約束した。山岸孫一も藩の改革に影響されたのであろうか、その翌年「家柄の者」を御用前に任用する従来の人事を転換して、足軽出身の、算筆に秀でた鈴木可能を御用前に抜擢した。『御用留』は、この人事改革(人事騒動)を契機に書き始められた。
本書の舞台となる前谷地村は元和2年(1616)から始まる大規模新田開発によって誕生した。山岸は1650年頃に前谷地村に入植し、寛文七年(1667)検地を受けて295石余の知行を給付された。検地では実際に土地を耕作して年貢負担する者を登録したので、一人(一農家)当たりの耕作面積が平均化された。したがって、検地帳に基づいて機械的に年貢徴収しても不都合がなかった。
ところが、17世紀後半から全国的に農民層が、富を蓄積する富裕層と困窮化する貧困層とに分解し始める。仙台藩でも18世紀に入ると農民層が階層分化して、検地帳に基づいた機械的な年貢賦課が実情に合わなくなる。年貢を賦課するにあたって農民一人ひとりの実情を考慮しないわけにはいかなくなったのである。そこで給人は、農民の中から地肝入を選任して、地肝入を通じて給所の管理を行うようになった。
仙台藩では、寛政の大一揆を契機にして「寛政の転法」と呼ばれる農政改革が実施されたが、農民層の分解を押しとどめることはできなかった。とりわけ天保の大飢饉(1833〜37年)は土地保有関係を根底から崩壊させた。大飢饉で打撃を受けた貧困層は借金が膨らみ、土地を手放して借金を清算する以外に方法がなくなったのだ。
藩も荒廃した農村を立て直すためには農家の借財整理が必要であると判断して、従来の土地保有に関する規制(農家一軒当たり所持高5貫文以内とする制限)を取り払ったので、一部の富裕層にますます土地が集中する結果となった。
年貢の徴収がままならず窮乏化した給人の金主(貸し手)は、裕福な農民であった。山岸は、給所の前谷地村、堀口村、真野村、高屋敷村の農民から年貢を担保にして金を借りた。給人と富裕層の農民との力関係が逆転するようになると、武士の権威・権力が形骸化する。それに伴い家中・足軽の序列も変化する。幕末には家中・足軽・本百姓・水呑(みずのみ)という「身分」さえも曖昧になる。
その結果、山岸家中の人事も家柄重視の考え方が影を潜め、実務能力に優れたものが役職を独占するようになる。
仙台藩は明治を迎えるまで藩の行政機構が正常に維持され、治安は安定していた。南部藩(盛岡藩)のように農民一揆が頻発することはなかった。そのため政治の表面だけを見ていると、仙台藩内、とりわけ村社会においては戊辰戦争に敗れるまで旧態依然としていて、明治になって突然改革が始まったように見えてしまう。
実際、『宮城縣史2』(宮城縣史刊行會)や『宮城県の歴史』(山川出版社)などでは、幕末史を藩財政窮乏問題と尊王攘夷派と佐幕派の対立を軸に記述しているので、社会の底辺で人々の意識や人間関係がどのように変化したか、理解することができない。
本書では『御用留』を中心に資料を丹念に読み解きながら、土地の保有関係や身分意識がどのように変化していくかを、見ていく。
本書の構成について触れておく。本書は『御用留』を中心資料としているが、『御用留』に登場する人物は多岐にわたるので、年代順に記録を並べたのでは大変わかりにくいものになってしまう。そこで左のように再構成した。
序章で前谷地村の誕生と仙台藩の地方知行(じかたちぎょう)制について見ておく。前谷地村の誕生では前谷地村の地理的条件と山岸家臣団について触れる。地方知行制では仙台藩の給所支配の仕組みについて解説する。
第一章から第三章は、御用前を長く務めた鈴木家、西山家、斎藤家の親子三代記ないし四代記として構成した。
第一章「鈴木家の幕末」は足軽から御用前に抜擢された鈴木家親子四代の物語である。鈴木可能は有能であるが故に身分制の壁を打ち破ろうともがき苦しむ。その子、貢は天保の大飢饉に立ち向かう。
第二章「西山家の幕末」は代々御用前を務める「家柄の者」親子三代の物語である。能力主義の社会へと世の中が変わる中で、「誇るべき家」が解体に瀕する一家の物語である。
第三章「斎藤家の幕末」は御徒組(おかちぐみ)から御用前に昇進し、近代的な行政マンに成長する親子三代を取り上げる。三代目斎藤友右衛門は山岸家最後の御用前として明治を迎え、版籍奉還の実務にあたった。
第四章「前谷地村の事件簿」は、前章までの話からこぼれ落ちた出来事の中から、時代の変化を感じさせるエピソードを拾い集めた章である。
終章「前谷地村の明治維新」では、山岸家中が版籍奉還と地租改正にどのように対応したか、また、山岸の金主、斎藤家が明治期に全国第二位の巨大地主に成長した経緯を取り上げる。
明治維新とそれに連なる資本主義化といえば、薩長土肥や大河ドラマで話題の渋沢栄一など、雄藩や後世に名を知られた人々が活躍して勝ち取った社会変革のようなイメージを持たれがちですが、主従関係や身分の上下を重視する封建制度の崩壊や、家柄ではなく実力で取り立てる人事制度の導入は、じつはもっと古くから、広い範囲で起こっていたことが本書で明らかになりました。
本書は、19世紀を通して起きた仙台藩前谷地村、現在の宮城県石巻市前谷地地区で、60年にわたって給人(知行を持つ武士)の家臣団が書き継いだ『御用留』をもとに、武士の困窮や度重なる飢饉で揺れ動く地方社会の変化の様子を克明に描きました。
武士同士の権力争いや年貢率の推移といった支配者層の記録から、婚姻や離婚、土地継承などの小さな騒動まで、当時の空気を肌で感じることができます。
本書の特色は、古文書を丁寧に読み解いた現代語訳とともに、その出来事に至った流れや結果を詳述していることです。
著者は長年にわたり、慶長遣欧使節・支倉常長と縁のある郷土の歴史を研究してきました。在野の研究者だからこそ書き得た、余分な解釈のない、史料に書かれた素の情報よりを読むことができます。