| デイビッド・ウォルトナー=テーブズ[著]片岡夏実[訳] 2,700円+税 四六判上製 328頁 2021年1月刊行 ISBN978-4-8067-1611-2 ヒトが免疫を獲得していない未知の病原体が、 突如として現れ人間社会を襲うようになった21世紀。 コロナウイルスに限らず、新興感染症の波が次々と襲ってくるのはなぜなのか。 獣医師、疫学者として世界の人獣共通感染症の最前線に立ち続けた著者が、 感染症の培養器となっている工場型畜産から、 感染症を運ぶエキゾチックなペット問題まで、 グローバル化した人間社会が構造的に生み出す 新興感染症とその対応を平易・冷静に描く。 |
デイビッド・ウォルトナー=テーブズ(David Waltner-Toews)
カナダ・グエルフ大学名誉教授。
獣医師、疫学者、作家、詩人と多彩な顔を持ち、「国境なき獣医師団」創設者として、
動物と人間の健康、コミュニティの持続可能な開発、貧困の解消に取り組んでいる。
その著書はノンフィクション、小説、詩など多岐にわたる。
邦訳書には『排泄物と文明』『昆虫食と文明』(築地書館)がある。
片岡夏実(かたおか・なつみ)
1964年、神奈川県生まれ。
主な訳書に、デイビッド・モントゴメリー『土の文明史』『土と内臓』(アン・ビクレーと共著)『土・牛・微生物』、
デイビッド・ウォルトナー=テーブズ『排泄物と文明』『昆虫食と文明』、
スティーブン・R・パルンビ+アンソニー・R・パルンビ『海の極限生物』、トーマス・D・シーリー『ミツバチの会議』(以上、築地書館)、
ジュリアン・クリブ『90億人の食糧問題』、セス・フレッチャー『瓶詰めのエネルギー』(以上、シーエムシー出版)など。
はじめに 私たち自身が微生物から進化し、微生物で構成されていることを忘れずに感染症と付き合うために
感染症の世界へようこそ
失われた生息地と消えゆく野生動物からの顕微鏡サイズの難民の物語
お互いの周辺視野に敬意を払おう
本書で使う病名について
1 感染症対応入門 それは勝つための戦いではなく、敬意と警戒を抱いた対話である
リスク管理の科学とパンデミック
パンデミック対応ガイドラインとインフルエンザ
21世紀のパンデミックは氷河期と間氷期
感染性微生物の巨大な培養槽としての工場型畜産
2 人獣共通感染症の理解のための新しい枠組み
新興感染症(EIDS)を包む不確実とは
病原体の偶然宿主としてのヒト
シュワーベの分類システム
環境の劣化が媒介する人獣共通感染症の分類
3 ペスト 人間、ノミ、ネズミ、そして社会生態システムの病
プレイグ(疫病)とペスト
黒死病とホワイト・プレイグ(結核)
ノミ、異星から来た軍用獣のような寄生動物
ノミの駆除方法
ペスト菌のノミへの感染
ノミにすみかと食事を提供するネズミ
インドでのネズミとの日々
伝染病と人間社会システム
タンザニアのペスト・アウトブレイク
ネズミ、ペスト、そして認知的不協和
4 ライム病 マダニが媒介する新興感染
自分で移動手段を持つ細菌スピロヘータ
母親たちの執念が見つけたライム病
ドングリ豊作に始まる野ネズミ、シカ、そしてマダニの増加
検査の感度についての科学
検査の成果を高めるための生物多様性
気候変動、多様性、森での散歩
5 アフリカ睡眠病、シャーガス病、リーシュマニア サシバエとキス虫が運ぶ血液寄生虫
3億年前の真核生物と2億年前のハエ
旧約聖書にも書かれたツェツェバエ
ローデシアトリパノソーマ
熱帯の農家の栽培品種の多様性に驚く
ウガンダの人々が取りうる選択肢とは
ハエにトラップを仕掛けながら考えたこと
トリパノソーマが引き起こすもう一つの病、南米のシャーガス病
さまざまな感染サイクル
リーシュマニア病の世界展開
イヌからの感染
感染地域のイヌをすべて殺せば、この病気は防げるのか?
6 西部ウマ脳炎(WEE)、テレビ、エアコン
感染症への人類の勝利宣言
西部ウマ脳炎ウイルスとイエスズメと蚊
ニワトリは発症することなくWEEへの抗体を作る
ウマにはワクチン、ヒトにはテレビとエアコン
7 西ナイルウイルス 渡り鳥、蚊、水たまり
ナイル川の源流発見物語
アレクサンドロス大王も西ナイルウイルスで死んだ?
蚊が媒介するウイルスたち
黄熱病--奴隷船の貯水槽が運んだネッタイシマカ
西ナイルウイルス、1999年、ニューヨーク
北米で風土病化する
カラスやフクロウが地面に落ちて死んでいく
五大湖周辺のカモメが病原体の隠れ場所か
蚊を越冬させない都市景観設計
8 家禽の飼育と渡り鳥、そして食料生産の社会的、生態学的重要性に関する知識について
新型鳥インフルエンザ
ジャワ島でニワトリと暮らす
ニワトリの脳みその味
世界中で同じニワトリが工業製品のように育てられることの疫病学的意味を考える
鳥の腸に普通に棲むウイルスが人類の脅威となる道筋
H5N1の出現と21世紀のパンデミック
食料の社会的、生態学的重要性に関する知識
9 ニパウイルス、SARS-CoV、SARS-CoV-2の物語
日本脳炎ではなくニパウイルスだった
オオコウモリからブタ、そしてヒトへ
SARS─異常に重症な急性肺炎
SARSはどこから来たのか
SARS-CoV-2はどのように発生したのか
10 出血熱 ラッサとエボラとマールブルグ
ラッサ熱ウイルス
ドイツの研究所でサルから始まったマールブルグ病
エボラウイルスとNMLによるワクチン開発
新たな伝染病発生の根本的原因
11 レプトスピラ症とハンタウイルス ネズミの小便をかきわけて
250種以上のスピロヘータが引き起こす病気
ネズミの小便からヒトの腎臓へ
ハンタウイルスとCDC
ハンタウイルスから人間社会へのメッセージ
12 狂犬病 吸血コウモリ、パスツール
恐怖と怒りの源泉
古典と狂犬病
多様な潜伏期間、多様な症状、多様な社会的行動を持つ病気
パスツールとワクチン
ラテンアメリカの狂犬病とチスイコウモリ
狂犬病の中心地・オンタリオ州
狂犬病の子犬が老人ホームへ贈られる
野生キツネへのワクチン接種プログラムの成功
実験と思考によって恐怖から抜け出せる
13 ペットと感染症
なぜペットを家の中で飼うのか
ペットの文化がなかった中国とヨーロッパ
ペットの人間への治療効果
ペットからヒトへうつる病気
ネコとゴキブリによるトキソプラズマ寄生虫感染
トキソプラズマ症と妊婦
ネコのトイレとしての穀物庫
北米でのトキソプラズマ・アウトブレイク
あらゆるネコをひもでつなげば解決する問題なのか
イヌ咬傷
イヌ、ネコによる寄生虫、回虫の感染
コンパニオンアニマルとヒトとの関係をどう考えるか
14 Q熱 経路不明の「謎」の疾患
ポーカープレイヤーたちの子猫からの感染
リケッチアの分離
コクシエラ症─人獣共通感染症
ヒツジ、ヤギ、ウシとQ熱
Q熱はどのように感染するのか
南仏のそよ風、マダニ、性感染症
15 白いペストとブルセラ症
黒死病、ハンセン病から結核へ
英国のウシの四割が感染
ブルース、ザミット、バングによる細菌発見
ブルセラ症と生ワクチン
サグラダ・ファミリアとブルセラ症
16 包虫病 神々の国とイヌの寄生虫
カトマンズで悟りを開く─スイギュウの解体
イヌが媒介するサナダ虫、エキノコックス
サナダムシの嚢胞はどこまでも大きくなる
終末宿主としてのヒト
科学者の革命的細胞
カトマンズ19区、20区での挑戦
ネパールでイヌの糞を集める
グッド・サイエンスと文化の尊重はなぜ両立しないのか
社会・生体システム全体の健康について考える新しいアプローチ
後日談
17 終章 まわりじゅうに、私たちの中にもいる微生物との対話と鋭く注意深い生態系意識
連帯感を保ったソーシャル・ディスタンシング
社会的不正は大規模に人を殺している
すべての対策がプラス面とマイナス面を持つ
ポストモダンからポストノーマルサイエンスへ
還元主義的科学から対話の科学へ
謝辞/訳者あとがき/写真クレジット/推薦図書/索引
感染症の世界へようこそ
1990年代後半に鳥インフルエンザが派手に登場し、さらに今世紀初頭、それ以上に衝撃的なSARS(重症急性呼吸器症候群)の騒動も冷めやらぬ中、私は本書の旧版 The Chickens Fight Back: Pandemic Panics and Deadly Diseases That Jump from Animals to Humans(ニワトリの反撃--パンデミックパニックと動物からヒトにうつる死の病)を執筆した。まったく違った形で、どちらの病気も1918年に起きたインフルエンザの世界的流行[パンデミック]の恐怖と記憶を呼び覚まし、世界中で家畜は殺処分され、空港は閉鎖され、政府はパニックを起こし、自治体の長はわめき散らし、大騒動が巻き起こった。一方、2009年と2010年に世界を席巻したインフルエンザ(初めブタインフルエンザと呼ばれ、のちにH1N1という専門的なあだ名が付けられた)のパンデミックは、半信半疑の控えめな反応を引き起こした。
2020年、私はこの新版を、新型コロナウイルスSARS-COV[サーズコブ]-2(ウイルス名)とCOVID[コービッド]-19(それが引き起こす病名)の爆発的な拡散に対処するための世界的ロックダウン(都市封鎖)の中で書いている。COVID-19は今や、長きにわたって人類史につきまとってきたパンデミック、近パンデミック、パンデミックの可能性のリストに名を連ねている。SARS、鳥インフル、ブタインフル、エボラ、腺ペストといった通称を持つこうした疾患には、いずれも共通点がある。これらは人獣共通感染症、つまり他の動物という本来の居場所から、人間に棲みつこうと飛び移ってきた病気なのだ。あるものは--ほとんどはインフルエンザウイルスだ--ニワトリやブタから人間へと直接伝わった。またあるもの、エボラ、COVID-19、SARSなどは、コウモリを起点に回り道をして、他の1、2種類の動物--たぶんハクビシン、サル、あるいはセンザンコウ--で休憩を取ってからヒトにたどり着いた。21世紀にようこそ。
SARS-COV-2の突然の発生と全世界への感染拡大は予測できた、そう言い張る者もいるかもしれないが、それは、世界のどこかで地震や火山の噴火があることが予測できるという意味で予測できる、ということにすぎない。たとえば世界の火山の4分の3以上が存在し、太平洋を取り巻く馬蹄形をした環太平洋火山帯の縁に沿って火山の噴火や地震があるだろうと予測することはできるが、正確にいつ、どこで起きるかははっきりしない。
もちろん、新興感染症に関する報告、政府関係者の説明、警告、動物を起源とする形跡のあるキメラウイルスの噂はあった。今思えば、報告に耳を傾けておけばよかったのだ。それは単なる悲憤慷慨ではなかったのだから。それは科学的研究とシミュレーションに基づいていた。だが、私たちを悩ませ続けているのは、中国の市場の凶悪なウイルスだけではない。そして集団的な混乱と否認の中で、私たちは驚いた。驚くほどのことはなかった、と言いたいところだが、「だから言ったじゃないか」式の後知恵が、慰めになったり役に立ったりしたためしを、私は知らない。
われわれのあいだでもっとも科学リテラシーの高い者ですら、王冠を戴いているとはいえ不安定なウイルス〔「コロナ」の語源はラテン語の「冠」〕にもたらされたアウトブレイクが、新しい時代の、あるいはまったく異質な時代の前ぶれですらあるのではないかと、疑いたくなるのもしかたあるまい。中には、十分な証拠に基づいて、王冠を戴く頭はいつも、いくぶん不安定であったと主張する向きもあるかもしれない。一方で、小さな出来事の影響─たとえばブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスの嵐に及ぼす影響─を過小評価していたのはわれわれが最初ではない。私たちが信じたいと思っているよりも、世界は混沌として予測しがたいのだ。
失われた生息地と消えゆく野生動物からの顕微鏡サイズの難民の物語
2020年以前に映画や小説の中で想像されたパンデミックの多くは、ゴミが散らばる街をよろよろと歩き回る人々、全身の穴から噴き出す血、ゾンビ、数十億の死、街頭の死体などが描かれた終末論的なシナリオを含んでいた。もしかすると一部の宗教やイデオロギーの狂信者は、たいていは密かにではあるが、歴史家のウォルター・シャイデルが述べた、ありがちな神の救いとしてのパンデミックが、「旧秩序をたたき壊」して「収入と富の格差をなくす」だけの激しい衝撃を与えることを望んですらいるかもしれない。
大半の文芸作品のシナリオで想像されていなかったのは、急速に広がり、数十万の人々が感染し、ほとんど行き当たりばったりに殺すような感染症だった。もちろん、過去のパンデミックのように、COVID-19では高齢者や、がん、糖尿病、心臓病などのため免疫系がすでに圧迫されている人のほうが死に至りやすい傾向がある。だが私自身を含め多くの者が見ていて衝撃を受けるのは、働き盛りの健康な人が2人、SARS-COV-2に感染して、これといった医学的説明なしに一人は死亡し、もう一人は生き延びることだ。これはまるで、私のコロンビア人の同業者が1990年代に語った、車からの無差別銃撃だ。
だからそう、SARS-COV-2のパンデミックは予測可能だったが、本書執筆時点でロックダウン下にあるイタリア人の同業者はこう言った。「地震のときでさえ、地面が揺れている真っ最中、最初の反応(せいぜい数秒以内)は否認だ。こんなことはありえない、そんなはずはない、ここで起きるわけがない! あとで廃墟を見てさえも、まだ信じられないのだ」
私たちの大部分は20世紀の特徴である荒れ果てた風景、失われた生息地、消えゆく大型動物に気づいている。私たちは鳥やサイの絶滅を心配している。ある節足動物、ミツバチやチョウのようなものを守ろうとしながら、同時に別のものを殺そうとしている。それでも、消えゆく動物たちをすみかとする何兆というウイルス、酵母、菌類、細菌について、また、私たちがその生息地を壊して鉱山や牧場や都市にしてしまったら、こうした微生物相がどこを新しいすみかとすればいいか、もっとも環境保護意識が高い者でさえ考えることはめったにない。本書で述べる病気は、ある意味で、そうした失われた生息地と消えゆく種からの顕微鏡サイズの難民が関わっているのだ。
地球上のすべての生き物は、機能不全を起こしている一つの大家族だといえる。その中ではほとんどの細菌、ウイルス、寄生生物が有益で不可欠であり、病気には本質的に有益な役割があり、私たち自身が微生物から進化し、微生物で構成されている。私たち─厄介ですばらしい、矛盾した人類を含めたこの大家族─は、ある種の真剣な物語療法の力を借りて、問題を解決することができる。戦争は、動員、技術兵器、国家の威信、市民的自由の停止、外国人嫌悪、副次的被害を伴うため、いかに感染症と闘うかの比喩としてよく使われる。だがそれはあまりに貧困で偏狭なイメージだ。たぶん政治、いわゆる可能性の技術のほうが比喩としてふさわしい。戦争は最後の手段だ。
数千年にわたって病原体と闘い、最悪のもののいくつかを撲滅したわれわれは、病原体と交渉し、互いに必要とするものを融通しあい、形式的なちょっとした小競り合いをし、双方にそこそこ許容範囲の犠牲者を出して終わるという道さえも見いだせるかもしれない。21世紀には、われわれには共通の未来があることが、あるいはそもそも未来なんかないことがわかりつつある。だが、そうした未来のためには、今までと違う生態学をより意識した形で、私たちはみずから学ぶ必要がある。数多い課題の一つが、その学びを新しい常識、われわれが共有するこの驚くべき惑星への思いやりに満ちた、他の人々や他の生物種との連帯のようなものに変換することだ。
お互いの周辺視野に敬意を払おう
臨床神経学者のオリバー・サックスは、われわれが「周辺視野に対して、本来払うべき敬意を払っていない」と述べている。サックスは、自身の個人的経験について言っているのだが、私たちの中には、生物医学がきわめて狭い範囲に集中しながら、混乱してふらふらと落ち着かないのは、周辺視野への敬意が総体的に欠けている─どころか周辺視野を病的に喪失している─ことを反映しているのだと主張する者もいる。
もしもヒトの疾患を扱う疫学者がもっと動物の疾患について知っていれば、もしも獣医疫学者が公衆衛生当局者との対話にもっと時間を割いていれば、もしも経済学者と政治家が複雑な社会・生態学的な網の目をより意識していれば、もしも新興ビジネスの指導者がみんな破壊的な起業イノベーションの予期せぬ結果を知っていれば、もしもわれわれが、今目の前にあるものにするのと同じように、自分を取り巻く世界に関心を払えたとしたら……たぶんわれわれはCOVID-19の出現にこれほどの衝撃を受けなかったのではないか。「もしも」ばかりだが、そのいずれもただ一人の専門家、科学者、政治家によって対処できるものではない。グローバルな意味での周辺視野は、互いに気をつけ合うことを私たちに要求する。過密な21世紀において、私たちは互いの周辺視野なのだ。
私たちはみんな死ぬ。それは自然な人生の一部だ。それでも、私たちの死をもっと愉快に、あまり悲惨でないように、より人間らしいものにする方法はある。詩人のW・H・オーデンはこう言っている。地獄の標語は食うか、食われるか。天国の標語は食い、そして食われる。
私たちがこの地球を共有している動物たちとそれが運ぶ微生物を、つまり私たちが食うものと私たちを食うものを、もうほんの少し理解するなら、自分自身のこともわかり始めるかもしれない。
本書で使う病名について
最後に、アウトブレイク、エピデミック(流行)、パンデミックに関わる蝶が引き起こした専門用語の竜巻に踏み込む前に、名前について触れておかなければならない。ハリケーンの名前は批判を受け入れたが〔ハリケーンにはかつて女性の名前がつけられていたが、性差別的であるとして1979年から男女両方の名がつくようになった〕、病名はさらに問題が大きい。ものに名前をつける仕事は、17世紀の上流階級のラテン語にせよ、大衆文化にせよ、人が背負った重荷だ。この仕事は深い思慮なしに引き受けるべきではない。場合によっては、軽率な命名の結果、コウモリが棲む洞窟が見境なく爆破されたり、ハクビシンやイヌが殺処分されたりすることもあるのだ。病名にそれが最初に発見された地名(西ナイル、ラゴス、香港、アジア、ロシア、武漢など)をつけるのは、現地調査員が間に合わせにするには便利だろうが、煽動や外国人嫌悪や人種差別を助長する言葉にもなりうる。
名前は優れた公衆衛生プログラムを実行する妨げにもなりかねない。H1N1はブタインフルエンザと呼ばれていたが、一部の中東の指導者が、無理もないことだが不快感を覚え、メキシコウイルスと呼ぶことを提唱した。ウイルス学者は、どこかの平行世界の住所を示す郵便番号のような名前をつけて、ことを鎮めた。かと思えば、誰かが、無思慮にか悪意でか病気に民族、性的指向(たとえばHIVを「ゲイの病気」とするなど)、国籍、経済状況に基づくレッテルを貼った結果、多くの人々が汚名を着せられ、追放され、街頭で襲撃され、殺されてきた。本書で私は、できる限り専門的な学術用語を用い、それが使えなかったりあまりにピンとこないときにはSARS(Severe Acute Respiratory Syndrome、重症急性呼吸器症候群)のような説明的な一般名を使うことにする。
2020年初頭、中国・武漢で発生した新型のウイルス性肺炎が流行しているというニュースを聞いても、私はさほど気に留めなかった。大半の人がそうだったのだろうと思う。以前にもSARSなど同じようにして出現した同じような病気があり、そして、海外ではともかく日本国内では、さほどの騒動もなく鎮静化していった。今回もそうなるものとばかり思っていた。ところが……
本書は2007年に刊行されたデイビッド・ウォルトナー=テーブズ著 The Chickens Fight Back: Pandemic Panics and Deadly Diseases That Jump from Animals to Humans(ニワトリの反撃:パンデミックパニックと動物からヒトにうつる死の病)に、その後の事態の進展を受けて加筆、改題し、2020年春に緊急出版されたものだ。「その後の事態」には言うまでもなく、2019年に発生した新型コロナウイルス(以下、本文に沿ってCOVID-19と表記)のパンデミックも含まれる。
本書では、ペストや結核など昔から広く知られているもの、一般にはあまりなじみのないもの、最近騒がれるようになったSARS、エボラ出血熱、もちろんCOVID-19など、幅広い疾患を網羅しているが、いずれも自然界で複数の動物のあいだに感染サイクルを持ち、動物から人間に感染する疾患「人獣共通感染症」であることは共通している。
このような感染症の病原体は自然宿主のあいだで、つまり本来の居場所で循環していれば、それほど困ったことはない。自然宿主でない人間や家畜に感染したとき、問題が発生する。そこに感染拡大の原因解明、さらには抑制や予防の鍵がある。
なぜこうした病原体が自然の循環からはずれて、人間と接触するようになったのか? 原因は開発や気候変動による自然宿主の生息域の縮小や変化、農業・畜産業の大規模化、グローバル化した経済、貧困と都市問題などに求められる。こうした問題は科学技術的にのみ解決できるものではなく、社会・生態システムへの総合的なアプローチが必要となる。しかし科学者や技術官僚たちは、往々にしてそのようなやり方を嫌う。技術的解決のみを求めた結果、問題がより大きくなったり、一つの問題を解決してもまた新たな(たいてい元よりも厄介な)問題が発生することもあるのだ。
ウォルトナー=テーブズのこうした科学技術観は、ソ連のスターリン政権から亡命してきたという家族の記憶に育まれたものかもしれない。本書の中でスターリン政権について著者は「上意下達の科学テクノクラートによる解決法の究極形」、ナチス・ドイツに対しても同様に「イデオロギー主導の、建前としては冷静な科学を追究していた」と辛辣に評している。ネパールの官僚が、著者たち外部の科学者に対して抱く疑念は理解しながらも、その政策はやはり間違っていると断ずる。これら上意下達のテクノクラシー的なやり方の対極に、著者が説く解決策がある。
感染症対策に戦争の比喩を使う人がいる。人獣共通感染症と戦争をして根絶することはできない。勝利したと思っても、根本的な原因が放置されていれば新しいものが出現したり、別の場所に思いがけない形で発生したりする。対策は病原体との戦争ではなく、和平交渉のように休戦状態を作り出すものかもしれない。調査研究によって病原体の言い分を聞き、自然宿主から人間社会へと侵攻した原因を突き止め、再び本来の居場所に戻すとともに人間の側でも相手の領域を侵さないようにする。獣医師・疫学者として世界各地の最前線で人獣共通感染症の調査研究に携わってきた著者は、優れたネゴシエーターであり、本書は交渉の記録なのだ。
夏ごろにいったんは落ち着いたかに見えたCOVID-19の感染者数は再び増加に転じ、このあとがきを書いている2020年の晩秋から初冬には、流行の第三波ではないかと言われ始めていた。現時点ではいつどのようにして終息するのか、先の見通しは立たない。しかし、何らかの形で必ずパンデミックは終わる。そのとき、黒死病がヨーロッパの政治、経済、文化を変容させたように、世界の形が変わることはおそらく避けられない。どうせ変わるなら少しでもよいほうに変えたいものだ。そのためのヒントがここにある。
これからも続々と出現する感染症を心安らかに迎えるための本。
流行のたびに人々を恐怖に陥れてきたペストや結核、SARSそしてCOVID-19は、
いずれも自然界で複数の動物の間に感染サイクルを持ち、動物から人間に感染する「人獣共通感染症」と呼ばれています。
それらの病原体がなぜ自然の循環から外れて人と接触するようになったのか、どうすれば抑制・予防ができるのか。
「病気のリスク軽減は、究極的には単に個人の行為ではない。それは社会計画の機能でもあるのだ」と著者は語ります。
本書は、感染症の歴史や、世界各地に未だ存在する感染症の発生しやすい地域での専門家としての活動経験をもとに、
人間と環境との関わり、社会のあり方という視点から人獣共通感染症の本質を読み解きます。
著者は「国境なき獣医師団」を創設した獣医師であり、同時に疫学者、作家、詩人と多彩な顔を持っています。
人間と動物にまたがる世界を俯瞰するテーブズ氏だからこそ描けた、昨今の感染症の新たな切り口での解説は必読です。
本書第1刷77ページに収載いたしました表「検査感度について」で、以下の表記が誤っておりました。
お詫びして、訂正いたします。
※2021年10月19日現在
検査陰性・疾患陰性数
89,991→98,991
疾患陰性合計数
90,900→99,900
また、本表に関する原著者の補足説明を下記に記載します。
感度と特異度について
世界各地の読者から、表(訳注:邦訳77ページ)の計算が間違っていると指摘をいただいている。感度と特異度について、本書であまり長々しく解説するつもりはなかったのだが、数字を混乱させてしまったからには、もう少し詳しく説明する必要がありそうだ。さもないと、検査は不確実なものであり解釈する上で臨床判断が重要だという私の総論──これは依然事実だ──に読者が集中できないかもしれないからだ。
これは検査の感度と特異度、また、それらと病気の流行の度合い(有病率)との関係を理解する上での、きわめて単純化した、昔ながらの二項対立的なやりかただ。「感度」99パーセント、「特異度」99パーセントとされる検査があるとしよう。これは、実際に病気に感染している人のうち、99パーセントが検査陽性とされ(下表990/1000)、感染していない人のうち、99パーセントが検査陰性になる(下表98,010/99,000)ということだ。
表1:1パーセントの人(1000/100,000)が感染しているとする。本当に感染している人は、検査陽性になった人の半分(990/990+990)だけだ。偽陽性が多すぎる! 検査陰性だった9万8020人のうち、9万8010人は感染していない。これは十分満足できるものだ。
表2:しかし、有病率が20パーセントに上がり、感度(19,800/20,000=99%)と特異度(79,200/80,000=99%)が同じなら、次のような結果になる。
これは検査で陽性になったなら、おそらく感染している(96パーセントの陽性的中率)ということだ。検査陰性になった人は、まだ100パーセント近く感染していないが、有病率がもっと上がれば、陰性的中率は落ち込む。したがって一般的、定性的な規則は次のようなものになる。
――――――
病気がまれであれば、偽陽性(病気がないが検査で陽性になった人)が多く、病気が拡がれば、偽陰性(病気があるが検査で陰性になった人)が増える。こうした性質は、感染症対策にあたって検査結果の意味を読みとるのに重要である。偽陽性が多ければ、病気の抑制には都合がいいが、検査結果に基づいて行動を制限される人たちには迷惑だと言えるだろう。偽陰性が増えれば、隔離から取りこぼされる感染者が増え、病気は「目に見えずに」広がることになる。
――――――
多くの医療状況において、医師は感染していると信じるに足る他の理由(臨床症状、病歴、既知の患者との接触)のある人たちだけを検査する。このグループの人は、たぶん一般住民に比べ有病率が高い。このため、検査陽性になった人は実際に感染している可能性が高くなる。これが、政府機関がすでに臨床症状を持っている人を対象にした検査プログラムに重点を置きたがる理由の一つだ。
こうしたものをさらにややこしくしているのが、検査にさまざまな種類があることと、陽性と陰性の境目をどのように決めるかだ。生存ウイルスを見ているのか、死んだウイルスのタンパク質を見ているのか? いくつ検知できるのか? 問題となるウイルスの数は10個なのか、100個なのか? 別々の研究所で行なわれた検査を比較できるのか? 検査技師の熟練度は同じくらいか?
今回のパンデミックで(あるいは何か別のものでも)、検査で陽性が何人という議論を見たら、以上のようなことに気をつけてほしい。私自身は、検査結果はおそらく偏りのあるガイドラインだと考えて、日々の細かい数字に一喜一憂せず長期的な傾向を見ている。