| 支倉 清+支倉 紀代美[著] 2,400円+税 四六判上製 280頁 2019年11月刊行 ISBN978-4-8067-1592-4 下級武士の日記から読み解く、江戸時代中期の村の暮らし。 度重なる洪水に、武士たちはどのように対処したのか。 田畑を荒らす猪の対策に、農民は銃を持てるのか。 武士と百姓は一つの村の中でどのような関係にあったのか。 伊達藩御鳥見役(鷹狩の世話役)として農村で暮らした下級武士が 40年以上にわたって記した貴重な記録を解説する。 |
支倉清(はせくら・きよし)
宮城県石巻市(旧河南町前谷地)の支倉家に生まれる。元東京都公立小学校長。
宮城県前谷地の支倉家と、伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の大使・支倉常長と
どのようにつながるのか、長年研究を続けている。
支倉紀代美との共著書に『代官の判決をひっくり返した百姓たち――仙台藩入会地紛争』(築地書館)がある。
支倉紀代美(はせくら・きよみ)
宮城県東松島市に生まれ、石巻市前谷地で小学校・中学校・高等学校時代を過ごす。元神奈川県公立小学校教諭。
幼少期より、実父・本田雅童より習字の手習いを受ける。
その後、日本書学館の初山祥雲に師事し、本格的に「書」を学ぶ。
本書の元になった『二樅亭見聞録』も、「書」の知識を活かして、解読文を作成し、読解に取り組む。
はじめに
享保元年(1716)
小鳥・落鳥といえども捕るべからず
享保2年(1717)
屋形様の狩
権現森、山追
武家諸法度(幕府法令)
飯米麦の通行許可証
預御林、巡見衆宿泊所用材を伐採
未検地の知行への課税
【コラム】伊達吉村
【コラム】矢嶋喜太夫預御林
享保3年(1718)
江戸上屋敷類焼「難儀たるべし」
享保4年(1719)
杉苗1000本植林
鳥の捕獲を禁ずる
矢嶋喜太夫、借金
大不作、米価高騰
享保5年(1720)
相対済令(幕府法令)の一部変更
猪防ぎの空鉄砲許可
矢嶋喜太夫、御鳥見横目に就任
麦と大根、不作
猪防ぎ延長
年末支払
享保6年(1721)
駄送、許可願
猪防ぎ、今年も願い出る
北上川堤防と広渕大堤土手、決壊
決壊箇所修復の願書
明野(狩猟解禁)願
物成小割帳(年貢割り付け帳)
【コラム】課税と納税
享保7年(1722)
郡方御用を志願
家督養子願
家督並み御目見得
享保8年(1723)
藩主御野入(狩)、矢嶋屋敷にて御昼
乾字金切替(仙台藩の御触)
江戸中御改(江戸町人の人口調査)
【コラム】村と町
【コラム】狩の獲物
享保9年(1724)
杉300本、拝領願い出る
諸物価、値下を命ず(幕府法令)
広間造作開始
幸之丞、御目見得
屋形様宿泊所、修繕
藩主御野入(狩)、矢嶋家で昼食
「重」の字を憚り、親子で改名
米価下落
享保10年(1725)
今年も杉300本拝領願い出る
御出駕祝儀振舞
京都に絹織物注文
山追い鹿狩
吉村から御詠歌を賜る
歌をやったけは
御詠歌表具のため登仙
涌谷方面で御鷹野(鷹狩)
米価安
公方様昇進(うわさ話)
【コラム】江戸時代の肉食
【コラム】米価の変動
享保11年(1726)
参勤交代、下向
譜代下人に褒美
杉22本伐り出す
享保12年(1727)
玉入鉄砲許可願い
仙台大火、1571軒焼失
石巻鋳銭場、設営
享保13年(1728)
違法なむかい網、発見
石巻で銭、鋳出
公方様日光社参
参勤交代・下向、潮来水郷地帯を通る
雲雀を捕獲
洪水、23万石余の被害
給人、猪対策を出入司に献策
四季鉄砲御免かなわず
矢嶋喜太夫、神道を信仰
仙台藩の享保の改革(倹約令)
享保14年(1729)
猪防ぎ鉄砲、従来通りの期間で申請
防鉄砲許可、人により異なる
将軍吉宗御落胤、天一坊
山城国百姓、186歳(廻状の写)
御預山の由来
屋形様、濱御殿に上府のご挨拶
幸之丞前髪願
大肝入御役料屋敷
相対済令廃止(幕府法令)
金利引下令、幕府法令に倣う
店賃・地代等引下令
享保15年(1730)
無利息で貸します(うわさ話)
玉入鉄砲この末年々御免
矢嶋喜太夫、仙台北六番丁屋敷を取得
公儀による米価下落防止策(うわさ話)
屋敷内の杉売却
長屋建築
享保16年(1731)
人別送り状、矢嶋家中に三人引き取る
暇証文、矢嶋家中の二人解雇
江戸の大火
広渕村惣水落樋差し替え
和渕村惣水落埋樋差し替え
享保17年(1732)
飯米買付
雲霞大発生、各地で御祈祷
矢嶋喜太夫実弟、太田権右衛門落命
太田家の家督争い
【コラム】矢嶋喜太夫の身代五貫七四八文
享保18年(1733)
家督願の案
家督願、文言直し
役所に提出したまわりくどい家督願
御帳役から訂正指示、再々度の願書
付札、またまた訂正指示
家督を仰せ渡される
御目見得
切支丹証文案紙
医師証状添付のこと(仙台藩の御触)
年長者の養子禁止(仙台藩の御触)
天下の疫病、万民床に臥す
太田助兵衛登仙祝儀振舞
償い代
【コラム】御目見得
享保19年(1734)
侍井土手普請
人数改、矢嶋家中二人増える
「喜太夫も出居ったか」冥加至極
杉売却、小袖を買う
幸之丞結納
祝儀振舞
【コラム】アンバランスな男女比
【コラム】系図と墓石に見る女性
享保20年(1735)
「喜太夫、久しいな」
御献上物
神人感応、奇特を得たり
夜食御酒拝味
献上物は梨5つ
御獲の鳥、拝味
獲物二三也
白鳥御吸物拝味
朝日山で屋形様を見送る
寛保3年(1743)
188歳(うわさ話)
水鑑京清居士(うわさ話)
吉村、隠居御屋敷に移る
延享元年(1744)
もみの木売却、川海上通書付発行
新藩主、御国入り
御国入り、御祝儀、能見物と料理頂戴
猪討止・射止の許可(藩の御触)
仙台北六番丁屋敷の借地人
瀬上玄蕃、鹿又村に移封
御扶持質入れ制限(仙台藩法令)
瀬上玄蕃知行内の足軽屋敷(借地許可の手紙)
延享2年(1745)
喜太夫58歳、御鳥見退役願
退役の御褒美、銀子一枚
琉球人を乗せた薩摩船、漂着
嫡子幸之丞、御鳥見役就任
冬の大嵐
延享3年(1746)
屋敷の杉100本売り払う
おたり婚礼
瀬上玄蕃初地入
延享4年(1747)
鉄砲解禁になる
鉄砲、御役代
【コラム】農具としての鉄砲
寛延2年(1749)
伊達郡桑折代官所で百姓一揆
寛延4年(1751)
大雪にて鳥が殞る
宝暦元年(1751)
大屋形様御卒去
宝暦2年(1752)
松前の毒魚
宝暦4年(1754)
鳴神という獣の降りたる咄
宝暦7年(1757)
喜太夫隠居
付録
矢嶋家系図
矢嶋家文書
あとがき
参考文献
本書は、『二樅亭(にしょうてい)見聞録』(以下『見聞録』という)の現代語訳とその解説からなっています。
『見聞録』は仙台藩士矢嶋喜太夫が享保元年(1716)から宝暦7年(1757)まで42年間書き溜めた記録です。彼は元禄元年(1688)桃生郡深谷須江村(現・宮城県石巻市須江字瓦山(かわらやま))に生まれ、宝暦8年(1758)数え年71歳で亡くなるまで、生涯須江村に暮らしました。
喜太夫は下級武士でしたが、矢嶋家は慶安5年(1652)須江村に入植した開発地主でもありましたから、広大な屋敷地(およそ10万坪)を所持し、知行1貫88文(10石8斗8升)と切米5両、扶持方4人分を支給されていました。さらに藩有林1万800坪の管理も任され、その副産物(下草と枝木など)も取得していました。
江戸時代、武士も百姓、町人も米価の乱高下に悩まされますが、喜太夫は現物(玄米)収入と現金収入の両方がありましたから、生活は比較的安定していたようです。また桃生郡深谷地域は新田開発による森林減少のため燃料(薪)不足が深刻でしたので、広大な屋敷林で木材を生産し、預かった藩有林(御林)から出る枝木を取得する矢嶋家は、木材や薪でもかなりの収入を得ていました。下級武士で知行高が少ないにもかかわらず、例外的にゆとりある生活をしていました。
矢嶋家屋敷内には当時およそ20人が暮らしていました。そのうち喜太夫の家族は喜太夫と妻、息子、娘の四人でした。そのほかは家中(矢嶋家の家来)と呼ばれる武士身分の者とその家族、宿守(やどもり)等と呼ばれる奉公人とその家族などでした。彼らは矢嶋家の人別帳(にんべつちょう)に登録され矢嶋家の管理下で生活しました。
村人は村の人別帳によって村肝入(庄屋・名主に相当する村役人で身分は百姓)の管理下におかれましたが、喜太夫は武士身分ですから村の人別帳には登録されません。矢嶋家の家中や奉公人たちも矢嶋家の管理下にあることから、全員が村肝入の管理から外されていました。
『見聞録』から矢嶋家の仕事が3つあったことがわかります。
1つは農業経営です。知行1貫88文の田畑を耕作する仕事です。標準的な農家一軒分の経営規模ですが、丘陵地のため猪の食害に悩まされます。『見聞録』にはその対応に苦労する給人(給地を与えられた藩士)たちの様子が詳細に記録されています。また洪水に関する記録にも注目です。北上川氾濫の時間的経過や災害復興に関する記録、その年の小割帳(課税通知)などは、災害史の上でも村政史の上でも大変貴重です。関連して米相場の記録が出てきますが、なぜそのタイミングで米価を記録したのか、当時の農業経営者の気持ちになって考えてみたいところです。喜太夫は農業経営に関するこのような記録をたくさん残しましたが、喜太夫自身が農作業に直接携わった記録はありません。農作業は家中や奉公人に任せていたようです。
2つ目は山林経営です。屋敷地約10万坪の大半は杉林で、一部に樅(もみ)の木が植えてありました。藩有林1万800坪も杉林でした。『見聞録』には藩有林から公共工事用に御用木として切り出したときの記録が大量に残されています。山林の管理は、家中の加藤氏が担当していました。喜太夫は、自宅の修繕費用や子ども2人の結婚費用を屋敷林の杉を売却してまかなっています。
3つ目は御鳥見(おとりみ)横目です。御鳥見御用とも呼びました。留野(狩猟禁止区域)を数日おきに巡回して鷹狩の獲物となる白鳥、鶴、鴨(かも)、雁(がん)などの水鳥を保護する役目ですが、藩主伊達(だて)吉村の狩の案内役が最大の任務でした。喜太夫は享保5年(1720)数え年33歳で御鳥見横目に就任し、延享2年(1745)まで26年間つとめました。狩は、稲の収穫が終わる秋口から苗代作りが始まる春先までがそのシーズンです。喜太夫は、御鳥見横目の職務上、いつ(日にち・時間)、どこで(場所)、何を(鳥の種類)、何羽獲ったか詳細に記録しています。彼は、何度も狩の案内役をつとめるうちに藩主から親しく声を掛けてもらうようになります。『見聞録』には、藩主と直接会話した場面がまるで芝居の台本のように生き生きと記録されています。
『見聞録』には右の内容のほかに、幕府の法令、藩からの御触(おふれ)、江戸のうわさ話などが含まれています。御鳥見横目という藩の職制上、それらの情報に接することができたものと考えられます。江戸の情報が、仙台藩江戸上屋敷から仙台を経由して須江村の喜太夫に届くまでおよそ2ヶ月。喜太夫は大変に筆まめだったようで、武家諸法度のような長文でも、江戸の大火のような自分とはあまり関わりのなさそうな出来事でも、目にした情報はつぶさに書き留めています。本書で紹介するのは、その1割程度です。(中略)
筆者は長年、生まれ故郷(桃生郡前谷地村)の歴史を農業に従事した百姓や給人家中の視点から描いてみたいと考えてきました。彼らによって歴史が動いたと考えるからです。
桃生郡深谷の村々は江戸時代初期、百姓や給人(矢嶋喜太夫の先祖もそのひとり)、給人家中(私どもの先祖もそのひとり)が一鍬一鍬開墾して成立しました。ところが『宮城県史』や『石巻市史』などでは例外なく、藩の意向だけで新田開発が推進したように説明しています。郷土史だけではありません。日本史でも「吉宗は29年間の将軍在職のあいだ、諸政策を実行して幕政の改革に取り組んだ」(『詳説日本史』山川出版社)と、為政者側から叙述しています。
為政者が発布する一篇の法令によって社会が動くものなのでしょうか。『見聞録』には幕府法令や仙台藩の触書がたくさん出てきますが、たとえば「物価引下げ令」によって物価は下がったでしょうか。『見聞録』に猪防ぎの話が登場します。猪を鉄砲で討ち止めるしかないと藩に認めさせたのは百姓身分の者たちでした。代官や在地の武士層は古格古例を尊重するあまり、現状を変革する発想を持つことができなかったのです。直接農業に携わる者たちの方が現状を正しく認識し、その解決策を示すことができたのです。
『見聞録』を書いた矢嶋喜太夫は下級とはいえ伊達家直臣ですから武士として強烈なプライドを持っていました。彼は下から目線で記録を残したわけではありません。しかしそのことも含めて村の実態を知る貴重な史料であることに変わりはありません。(後略)
生類哀れみの令が解かれ、将軍徳川吉宗が鷹狩を再開、
それにならって地方の藩主も狩を始めた18世紀初頭。
本書はその時代から始まります。
本書のもとになった日記「二樅亭見聞録」を記した矢嶋喜太夫は、
狩をする藩主の案内を務める御鳥見役の職につきました。
喜太夫の記録を通して、藩主の民に対する視線が見えてきます。
喜太夫は、知行地を耕す農業経営と、私有林・藩有林を管理する林業も行なっていました。
そのため知行高のわりに余裕のある暮らしをしていたようです。
子どもは息子と娘の二人。元服前の息子が病で前髪を落とすために許可を取り、
その後はお礼参りに回るほど封建主義を重視する一方で、
家の修繕のために藩有林の木材の使用許可を願い出る強かさも持つ人物です。
御鳥見役と農林業、両方の仕事にまつわる記録から、子どもの病気や結婚、信仰の誓いといった日常の風景まで。
藩主を支え、家族を守るために働く武士の暮らしがわかる本です。