サカナだって考えているはずだ。でも何を? どのように? どれぐらい複雑に? どれぐらい深く?
感覚や運動も含めて、脳のどのようなはたらきが「サカナの考え」を作り出しているのかを明らかにしたい。とは言うものの、正直なところ、研究はほとんど進んでいないと言ってよい。
サカナはヒトが理解できるような言語をもっていない。
「今、何を考えてそんなことをしたんですか」
などと聞くわけにはいかない。行動とか、感覚器とか、脳のつくりなんかから少しずつ解きほぐしていくことになる。
広島大学にあるわたしの研究室「こころの生物学*1」研究室では、「サカナが何かを考えるしくみ」について、生物学の立場から研究している。
サカナがもっているしくみ、たとえばサカナの心の作られ方、を理解することは、人間の理解にもつながる。もちろん、サカナにはサカナなりの、ヒトにはヒトなりの心がある。その一方で、進化的に共通の祖先をもっている以上、基本的な、かつとても重要な部分で、心のしくみを共有しているのだ。
動物の心のはたらきを生物学的に研究する学問を、「バイオサイコロジー(生物心理学)」とよぶ。バイオサイコロジーは、心理と行動の生物学的研究を行う分野である。行動神経科学というよびかたを好む人もいる。
単に「心理学」というと、ヒトの心のはたらきを推し量り、その発達の理解とか、実社会での応用を念頭に置いた学問であるという印象が強い。そしてこれに「比較」とか「生物」とかがつくと、動物全般を対象にした基礎学問という響きになる。
「こころの生物学」研究室では、捕る、飼う、増やす、を基本としている。そのうえで、サカナにいろいろな課題を与えて行動を観察したり、脳の構造やニューロン(神経細胞*2)のはたらきを実験的に調べていく。
そしてこれらすべてを組み合わせて、「サカナがこういうことを考えている時には、脳や感覚や運動がこのようにはたらいているのです」と主張したい(と願っている)。
たいていはうまくいかないし、うまくいってもなかなか進まない。
捕ったはいいが、飼育できない。せっかくうまく飼育しても、実験失敗。などなど。
でも時には、ああそうなっているのか、と大きな達成感に浸ることだってある。そんな時、きっと出てます脳内麻薬*3。
サカナの声なき声を聞くために、幾多の学生たちとともに格闘してきた。
たいてい、研究についての報道は、成果のみである。
「これこれについての研究により、このような発見がなされました。以上」
いやいや、べつに、わたしたちの研究はハデに報道されるようなものでもないし……とひがんでいるのではない。このようなことに興味をもって、日々奮闘している若者たち(もちろんわたしも含む)もいることを、ちょっとだけ知ってもらいたいのだ。
手足に測定用の押しボタンを装着し、身動きがとれなくなるとか。サカナに音楽を聞かせているようにしか見えないとか。細胞の数を数えすぎて、水玉模様を見るとついつい数を数えるようになってしまったり(もう治ったようです)。せっかくとった卵が全滅してしまったり。
研究の現場は、常に汗と涙にまみれている。
この本には、わたしの研究室にいた何人かの学生が登場する。わたしは学生をよぶ時には、性別にかかわらず「◯◯君」で通している。この本の中でもそれにならい、すべて「◯君」とした。性別は重要ではないので、気にしなくて結構です。適当に想像していただいてもよい。
サカナたちが何を考えながら生活しているのかを想像することは、別の角度から人間を眺めることでもある。もちろん、わたしたちはサカナではない。だから、本当の意味で「サカナであるということとはどういうことか」を理解(実感と言ったほうがよいか)するのは難しい。
どうしても、擬人化*4を通じて理解に「近づく」しかない。
サカナに限らず、動物を研究するうえで、擬人化というのは一種のタブーとなっている。客観的でないというわけだ。でも、動物の心を理解しようとする試みを、擬人化なしで乗り切ろうというのはかえって無理があるのではないか。
だってわたしら人間だもの、人間の心身を通してしか物事を見ることはできない。
マグロそっくりに泳ぐロボットを作ったって、ナマズのヒゲの感覚を再現するプログラム作ったって、結局は、それが「どんな感じか」を理解したがっているのは人間ですからね。
こう考えると、擬人化も全否定されるべきものではないはずだ。もちろん、単なる当て推量ではなく、科学的な事実を踏まえたうえでの話だけれど。
尊敬するドナルド・R・グリフィン先生も述べている。「動物たちは、自分たちにとって明らかに重要かつ単純なことがらについては何か考えているかもしれない、という可能性がある以上、擬人化に対する(予断と偏見にもとづいた)非難というのは、最も単純な意識的思考ですら、それが可能なのはわれわれ人間だけであるといううぬぼれた主張である」(Griffin,1992,著者訳)。
サカナは水の中に棲んでいるし、膨大な種類(2万5000種を超える。哺乳類はその5分の1以下)が、それぞれの得意分野を活かした生き方をしている。人間を基準にしたものさしでは測りきれない。
だからといって、あきらめる必要はない。さいわいわたしたちは想像し、共感するという優れた能力をもっている。
この本では、サカナのいろいろな行動や脳のはたらきの研究について、適度な擬人化を交えながら紹介するつもりだ。「こころの生物学」研究室での研究活動を中心とするが、いろいろな研究者が報告してきた面白い発見にも注目する。そして、サカナたちが一体何を考えながら生活しているのかを想像してみたい。驚くべき能力と、もしかしたら豊かな内面的世界が広がっているかもしれない。
*1:正式には、「広島大学大学院生物圏科学研究科生物資源科学専攻水圏生物生産学講座水族生理学研究室」という。舌を噛みそうだ。
*2:脳を含む神経系を構成する主要な要素で、互いにコミュニケーションしながら情報処理を行う単位となる細胞。
*3:モルヒネのような作用をもつ脳内の情報伝達物質で、痛みを抑えたり気分を高揚させたりするはたらきをもつ。
*4:人間ではないもの(無生物を含む)を、人間になぞらえること。擬人観ともいう。
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