| 村上哲生+南 基泰[著] 2,400円+税 四六判並製 240頁 2016年8月刊行 ISBN978-4-8067-1518-4 澄んだ湖水、強い紫外線、 標高5000メートルの高山湖に生物が多いのはなぜか、 時間とともに水位と水質が著しく変化する氷河河川、 息を吹きかけるとわずかな温度変化を感じて花を開く植物、 氷河地形ごとの多様な植生―――。 10年間5回の調査で初めて明らかになった、 7000メートルを超えるヒマラヤ山脈の北に位置する チベット高原の湖・川・植物の謎と魅力を紹介。 |
村上哲生(むらかみ・てつお)
1950年熊本県生まれ。愛知県犬山市在住。
熊本大学理学部生物学科卒業、博士(理学)。
名古屋市水道局、名古屋市環境科学研究所、名古屋女子大学を経て、現在中部大学
応用生物学部環境生物科学科教授。
専門は陸水学(川や湖に関する科学)。
高山の陸水学とともに、ダムや河口堰などの構築物が河川環境に及ぼす影響にも興
味をもっている。また学童を対象とした水辺での環境教育の仕事も近年多くなった。
著書に『ダム湖の中で起こること──ダム問題の議論のために』(地人書館、2013)、
『川と湖を見る・知る・探る──陸水学入門』(共著;地人書館、2011)、『身近な水
の環境科学──源流から干潟まで』(共著;朝倉書店、2010)、『ダム湖・ダム河川
の生態系と管理──日本における特性・動態・評価』(共著;名古屋大学出版会、
2010)、『河口堰』(共著;講談社、2000)、訳書『ダム湖の陸水学』(共訳;生物研
究社、2004)など。
南 基泰(みなみ・もとやす)
1964年福井県生まれ。愛知県春日井市在住。
近畿大学大学院博士後期課程農学専攻満期退学、博士(農学)。
厚生労働省国立医薬品食品衛生研究所筑波薬用植物栽培試験場流動研究員、農林水
産省野菜茶業試験場重点支援研究員を経て、現在中部大学応用生物学部環境生物科
学科教授。
専門は分子生態学。
薬用植物を中心とした高山帯や寒冷地に生育する植物の分子系統地理学を研究して
いる。最近では、植物だけでなく、動物、昆虫についても研究対象としている。
著書に『根の事典』(共著;朝倉書店、1998)、『恵那からの花綴り』(風媒社、
2010)、『環境生物学序論』(編著;風媒社、2013)、『樹の力』(The power of trees 、
グレッチェン. C. デイリー著、編訳;風媒社、2014)、『ESD──自然に学び大地と
生きる』(編著;風媒社、2014)など。
はじめに
第一章 高山湖を探る──チベットの湖 (村上哲生)
チベットの湖
湖の色と生物
チベットの湖の謎
プマユム湖(普莫雍錯)への旅
高山病
街での準備
プマユム湖への道
幕営
プマユム湖の水収支
高山湖の水資源開発
涸れた川
河口湿地
プマユム湖の水収支
プマユム湖の大きさと形
水深測定
面積、容積、平均水深
平均滞留年数
湖の水温や水質の調査
水温の分布
光の透過
塩分
ph
生物の活動
酸素の鉛直分布から読み取る生物の活動
チベットでの酸素の飽和度の計算の面倒さ
プマユム湖の不思議
酸素の生産と消費速度の測定
意外に大きかったプマユム湖の酸素生産
深水層での高い生産の裏づけ
2006年の追加調査
高山湖で高い生産が維持されるわけ
二つの栄養供給源
川の水は、湖のどの深さに流れこむか
強い光の功罪
シャジクモ帯・貝殻帯
生物でにぎやかな高山湖底
ヤムドク湖(羊卓雍錯)
湖の形
ナンカルツェの町
部分循環湖?
ヤムドク湖岸を走る
ヤムドク湖の伝説
ナム湖(納木錯)
ナム湖の観測施設
ナム湖一周の旅
塩湖
青蔵鉄道
チベットの湖のこれから
湖の縮小
汚染物質の滞留
保存か賢い利用か?
湖の個性の研究の面白さと重要性
第二章 氷河が涵養する川──チベットの川 (村上哲生)
川と湖
氷河河川
チベットの川の価値
チベットの川
乾いた大気と涸れ川
乾いたチベットと湿ったチベット
白濁した川と透明な川
氷河を水源にもつ川の一日
氷河の下へ
氷河湖
融ける氷河と水位の上昇
水温と濁りの変化
氷河の縮小
有機物が供給される経路
河川水中の生産が小さな氷河河川
氷河河川の生物
氷河に棲む虫
『北越雪譜』の雪蛆[せつじょ]
虫は何を食べているか?
河原の水溜りと河跡湖の重要性
ヤルンツァンポ川の大屈曲部へ──ラサからポミへの旅
利水と治水
河畔砂丘
湿ったチベット
大屈曲地帯
チベットの川のこれから
第三章 チベットの植物 (南 基泰)
高山帯で生き抜くための特異な形態──チベット南部
シノ・ヒマラヤ──ユーラシア東部の植物種分化の中心地
温室植物
小さきものたち
息を吹きかけると開く花
虫を誘うパラボラ型の花
花茎を伸ばすことをやめた花々
這いつくばる植物
妖精の輪
セーターを着こんだ植物
クッション植物
ゲーテの「変態論」で読み解く
移動する植物──ヒマラヤの青いケシ
分子系統地理学とは
ヒマラヤの青いケシを解析する
四つの高山植生──チベット南部
植生調査──面積と時期
土壌物理性の調査
分解しない植物遺体──高山湿原
お花畑にならない草原──高山草原
枯れたクッション植物の上に──高山ステップ
人も家畜もいない風景──高山荒原
植生を規定する土壌
温暖湿潤な森──チベット東部
ヒルのいる森
河跡湖での棲みわけ
河跡湖の水環境
東西の植生の境目
インドモンスーンの通り道
周氷河地形──もう一つの植生成立の要因
岩屑だらけの斜面
砂や礫が描いた模様
湿地の坊主たち──アースハンモック
亀甲模様の大地──植被多角形土
繰り返される植生遷移
氷河地形ごとの多様な植生
氷河が削った岩盤
氷河の側面にできるサイドモレーン
氷河湖をせき止めるエンドモレーン
アウトウォッシュ・プレーン──氷河河川の扇状地
氷河に削られた谷
氷河の後退と植生遷移
人々の営みと植物
世界でいちばん高い村
自然植生はどこに?
逆転した森林帯と草原
未腐植質が建築資材
畑の雑草
外来種──ヨウシュチョウセンアサガオ
チベットの薬用植物
生薬とは
生薬のお土産
薬草エキス入りの清涼飲料水
節間伸長をやめたリンドウ
正倉院の宝物──錦紋大黄[きんもんだいおう]
ダイオウの雑種問題
環境指標にならないマオウ
河口慧海とヒマラヤ植物
河口慧海のたどった道
慧海の植物標本帳
北西の曠原地の今
チベットの植物の今
おわりに
調査旅行行程
参考資料
生物名索引
地名索引
事項索引
本書ではモノクロ写真を掲載していますが、そのうちの何点かをカラー写真でご紹介します。
プマユム湖畔の幕営
テントは冬用のものに内張りをつけ、雨除けのフライ・シートをかぶせた。底面には断熱性のあるポリウレタンのマットを敷く。
この一張のテントが、調査の間の個人の住居となり、また実験室、倉庫の役割をはたす。
ランゲン峠から望むナム湖
氷河を源とする白濁した河川(右側)と、透明な水の河川(左側)の合流点
ヤルンツァンポ川の河畔砂丘
トウヒレン(キク科)
淡紅色の舟形の苞葉[ほうよう]が頭花をゆるく包んでおり、苞葉を開くと濃紫色の筒状花が密生している。
ホリドゥラ(ケシ科)
別名ヒマラヤの青いケシ。
パキプレウルム(セリ科)
花茎を伸ばすことをやめた花のひとつ。
クッション植物のひとつ、トチナイソウ属(サクラソウ科)の内部
氷河の浸食によって形成された半円形の窪地であるカールが巨大な砂丘になっている
ノジンカンツァン山のカロー・ラ氷河
7000メートルを超える山々が並ぶヒマラヤ山脈は、雪と氷の世界だ。世界中の淡水、つまり塩気を含まない水の70%は、
氷山、万年雪、氷河などの氷雪の形で存在している。多くの人が住む地域から離れた高山の氷雪は、直接の水資源としては使えない。
しかし、氷雪はしだいに融けて水となり、高山から人口が密な低地へ向けて流れ出す。
ヒマラヤ山脈の北に位置するチベット高原は、揚子江、メコン川、ブラマプトラ川、ガンジス川などのアジアの大河川の源となっている。
水を研究する者ならば、一度は見ておきたい地域だ。
チベット高原は、大量の潜在的な水資源を擁する地域であるとともに、この高山地域の特殊な環境が川や湖の生物へ及ぼす影響も、
水の世界の研究者に魅力的な課題を提供する。強い紫外線、栄養分が少ない澄んだ湖水、時間とともに水位や水質が著しく変化する氷河を源とする河川など、
日本ではまず見られない水環境と、そこに棲む生物の営みの観察には心が惹かれる。
植物についても興味深い地域だ。険しい地形と長く続いた鎖国政策により、植物の研究者やプラント・ハンターと呼ばれる採集者が
この地に入りこむのはたやすいことではなかった。分布地図の空白を埋める作業は、多くの植物群について未だ完全に終わったわけではない。
乾いて冷たい土地の植物の生活も興味深いものだ。温かい息を吹きかけるだけのわずかな温度変化を感じて花を開く植物、
厳しい屋外の環境から暖かい室内に持ちこんだら途端に茎の節が伸びていく植物などを目の当たりにするのは楽しい体験だった。
旅行者が少ないにもかかわらず、魅力的なチベットの探検記は結構多い。20世紀の始まりのころ、仏典の調査のために単身チベットに潜入した河口慧海、
チベット高原の動植物を紹介したN・M・プルジェワルスキーやF・キングドン─ウォード、
また映画化された『チベットの七年』を著したH・ハーラーなどじつに多彩だ。
中でも、慧海の旅行記は、私たちの世代では、国語の教科書にその一部が採用されていたこともあり、なじみ深いものだった。
今でもよく読まれているらしく、近年、探検記の基礎資料ともなる慧海の日記も刊行されている。
これらの先達の旅の苦労にくらべて、現在のチベット旅行はずいぶん楽になった。
徒歩や馬の背にゆられての旅ではなく、車で移動できる。行くたびに道は広くなり、舗装道路が延びている。
田舎町でも、清潔なベッドと湯の出るシャワーを備えた宿を探すことは困難ではない。
湖畔での幕営も、以前よりも防寒、防水性が増したテントや寝袋のおかげではるかに快適に過ごせる。
食事も、慧海のころのように水と麦粉だけの貧しいものではないし、キングドン─ウォードのように多量の食糧を運ぶ必要もない。
旅程の各町で多様なおいしい料理が楽しめる。首府・ラサ(拉薩)ではハンバーガーさえも食べることができる。
一年中生活するには厳しい気候かもしれないが、わずかな期間の滞在者の苦になるものではない。
現代のチベット旅行は、命をかける緊張感とは無縁だ。国内のちょっと離れた不便な土地に調査に行くのとそう変わらない。
だから、旅行の苦労話をするのはやめよう。
話したいのは、科学の目で見たチベットの水と緑だ。
慧海が伝える澄んだ湖のプランクトンの量はどれほどのものか?
ハーラーが渡渉に苦労した川の水位は一日でいったいどのくらい上がったのか?
彼らが凍えた氷河河川の水温は何度くらいなのか?
重い観測機材を携行できる現代の私たちの旅行で、初めて知ることができた話題を紹介したい。
自然の美しさを言葉で愛でたり、それを守るための主張を展開するのではなく、川や湖の観測で得られた数値と図と、
それらの意味を理解するための背景となる水と緑の知識をただ語るだけだ。慣れないうちは、煩雑な数字の羅列にしか思えないかもしれないが、
美しい言葉よりも雄弁に川や湖の現状を語り、将来の自然保存や保全の在り方を示す指針ともなると感じてもらえれば幸いだ。
私たちのチベット調査の始まりは、今から10年以上も昔に遡る。以来、数次にわたる調査には、いくつもの大学から多くの分野の研究者が参加した。
私たち2人の著者(村上哲生・南基泰:中部大学応用生物学部環境生物科学科)は、それぞれ、川や湖などの水環境と陸上の植物とを担当してきた。
専門分野は異なるけれども、自然の見方には似たものがある。2人が知りたいのは、特定の植物や魚の生活だけではなく、
人も含めたさまざまな生物と非生物的な環境からなる地域の特性そのものだ。
そのためには、現場を見て、その場所で考えることが必要なのだ。
大まかに言えば、チベットとはヒマラヤ山脈の北側に広がるチベット高原一帯を指す。かつてはラサを首都とした独立国だったが、
現在は中華人民共和国の一部となり、主要部はチベット自治区と呼ばれるようになった。私たちが調査に入ったのは、このチベット自治区だ。
自治区にはチベット仏教(ラマ教)を信仰するチベット人が250万人ほど暮らしているが、近年は、中国人(漢族)の移住が増え、
中国青海省・シリン(西寧)からラサへ鉄道が通るなど、自然と社会の環境が変化しつつある。
チベットの併合と漢化についての評価は、時代や立場によりさまざまな意見がある。
この本は、2人の生物研究者がチベットで見てきた自然環境とこれからの変貌の予想について、多くの人たちにその現実を知ってほしくて書いたものだ。
水環境の部分は村上、植物の部分は南が担当した。お互いに原稿を読み合い、意見を交換したが、その採否は著者の判断に委ねることとした。
同じ旅程で、同じものを見てきたはずだが、ずいぶん感じ方は異なるものだ。
記録を残すのは、公の費用で貴重な体験をさせてもらった研究者の義務だろうけれども、辛いことばかりではない。
調査で体験したことを思い出しながら文章化していくことは、もう1度旅を繰り返すような楽しさもある。
調査は現地から帰ってからが大事だ。持ち帰った試料を研究室で分析し、関連の資料を読みこむことにより、現地での体験の意味がより明確になってくる。
人がめったに行かない場所に行ったことに価値があるのではなく、そこで何を観測し、何を考えたかが重要だと思う。
ところで、チベットの旅行記を書く場合、地名の表記は結構大変な問題だ。そもそも中国政府は、詳しい地形図を公開していない。
市販の地図には小さな川や池の名前は載っていないし、同行する中国側の隊員に、地元の人に尋ねてもらっても、たいていわからない。
地図に載っている地名表記も、チベット名を漢字に意訳したり、音を漢字で表したりしてあるので、地図により異なる。
唯一公開され、頼りにしている旧ソビエト連邦製の地形図はロシア語表記ときている。地元での呼び方を知りたくて、
中国側の隊員にアルファベットにしてもらったこともあるが、しばらく考えこんだうえで母音の上に発音を示すさまざまな補助記号をつけて教えてくれた。
字面と実際の発音はずいぶん違う。カタカナに直す時に悩んだ。
また、川や湖、峠には、それぞれ語尾に地形を区別する「ポ」「ツォ」「ラ」がつく。日本語化する時、これを入れるかどうかも判断が分かれるところだ。
プマユム・ツォ湖と書けば、「湖」が2重になる。一方、日本でも比較的知られているヤルンツァンポ川をツァン川と書くと、
どこか違った川のようで気持ちが悪い。この本では、不統一かもしれないが、原則として、最も一般的な日本語ガイド・ブックに倣うことにした。
生物名の表記も悩むところだ。ラテン語の属名と種小名を組み合わせた学名を使えば、紛れはないが、このような表記に慣れていないと、
どんな生物か想像することは難しいだろう。カタカナの和名を使えば、日本にいる似た生物の姿から、ある程度類推できるかもしれない。
そこで、本文での記述は、熊や稲など一般的に知られていて漢字表記が普通な動植物以外はカタカナ表記にした。
しかし、地理的に大きく離れた地域では、同属の生物はいても、同種の生物が分布していることは稀だ。
カタカナ表記の和名をもつ種類と同種ではないこともある。また、水棲昆虫の「カワゲラ」と書けば、カワゲラ科(Perlidae)に属する種類なのか、
より上位の分類群、つまりその中にいくつかの科を含むカワゲラ目(せき翅目:Plecoptera)を指すのかがわかりにくくなる。
生物の名称については、巻末に学名と和名を対照させた生物名索引をつけたので、詳しく知りたければ、そちらで確認してほしい。
この調査旅行は、調査の企画段階から出版まで、多くの人たちに支えられてきた。専門的な助言もありがたかったし、
現場での肉体的、精神的な助力にも感謝したい。また、財政的な支援も多くの機関から受けることができた。
チベットの自然について語りだす前に、すべての関係者に深くお礼を申し上げたい。
村上哲生
南 基泰