![]() | ヨアヒム・ラートカウ+ロータル・ハーン[著]山縣光晶+長谷川純+小澤彩羽[訳] 5,500円+税 A5判上製 496頁 2015年10月刊行 ISBN978-4-8067-1498-9 政治史、経済史、社会史、科学史、技術史を横断する原子力産業史。 第二次世界大戦後、平和的な原子力利用を志したドイツは、どのようにして原発撤退を決定したのか。 ナチスの核兵器開発、科学技術のあり方と核兵器保有の思惑、チェルノブイリ原発事故による反原発機運の高まり、 2011年の福島の原発事故を受けた原発撤退の決定、エネルギーシフトまでを、 ドイツを代表する環境歴史学者と原子炉安全委員長を務めた原子力専門家が政府・産業界・研究者へのインタビューと膨大な資料から描く。 日本の戦後史を逆照射するドイツエネルギー史の大著。 書評掲載紙(ドイツ) 『ディ・ヴェルト』紙 「ラートカウは原発の歴史に関する背景を提供している。エネルギー転換の問題は、これを踏まえて議論されるべきであろう」 ディー・ターゲスツァイトゥング紙、mitteldeutsche-kirchenzeitungen紙(キリスト教会発行紙)など |
ヨアヒム・ラートカウ(Joachim Radkau)
ビーレフェルト大学名誉教授。1943年生まれ。ドイツにおける環境史の創始者の一人として著名。
環境史や自然保護史、技術史分野での基準となる数々の著作がある。
1970年、ハンブルク大学で博士号取得。
1980年、『ドイツ原子力産業の興隆と危機』と題する論文で教授資格取得。
1981年からビーレフェルト大学歴史・哲学部教授(近現代史)。
教授資格取得論文以来、その分野において最も大きな業績を上げた研究者として知られている。
日本語訳書に『自然と権力―環境の世界史』『ドイツ反原発運動小史―原子力産業・核エネルギー・公共性』(以上みすず書房)、
『木材と文明』(築地書館)。
ロータル・ハーン(Lothar Hahn)
ドイツの原子物理学者で、原子力分野の内部精通者。
1944年生まれ。マインツ大学などで物理学を学ぶ。
1978年からエコ・インスティテュートの原子力エネルギーの専門家として活躍した後、
2001年から現役引退の2010年まで施設及び原子炉安全協会の会長(技術学術部門担当)。
1999年から2002年まで連邦政府の原子炉安全委員会委員長。
また、2006年から2008年までOECDの原子力機関(NEA)の原子炉施設安全委員会委員長。
山縣光晶(やまがた・みつあき)
ドイツ環境政策研究所所長、林業経済研究所フェロー研究員。1950年生まれ。
1972年、東京農工大学農学部卒業。2013年、上智大学大学院文学研究科(ドイツ文学専攻)博士後期課程修了。
林野庁国有林野総合利用推進室長、近畿中国森林管理局計画部長、岐阜県立森林文化アカデミー教授、東京農工大学・京都精華大学講師、
林道安全協会専務理事、全国森林組合連合会常務理事、一般財団法人林業経済研究所所長などを歴任。日本独文学会会員。
専門は、森林政策、環境政策、ドイツロマン主義文学。『木材と文明』(築地書館)などの訳書、著書がある。
長谷川純(はせがわ・じゅん)
1957年生まれ。1983年、上智大学大学院文学研究科(ドイツ文学専攻)博士前期課程修了。
ルール大学、ボン大学に学ぶ。2012年上智大学大学院文学研究科(ドイツ文学専攻)博士後期課程修了、博士(文学)、日本独文学会会員。
ドイツ銀証券調査部を経て、現在日系IT企業グループ人材育成部門に勤務。
著書『語りの多声性─デーブリーンの小説『ハムレット』をめぐって』(鳥影社)。
小澤彩羽(おざわ・あやは)
2008年、上智大学大学院文学研究科(ドイツ文学専攻)博士前期課程修了。
この間、フライブルク大学にも学ぶ。修士(文学)。
インゲボルク・バッハマンなどの20世紀ドイツ文学を研究。
日本語版へのまえがき
ヨアヒム・ラートカウによるまえがき
原子力は、いかにして未来のものから歴史になったのか
熱狂から懐疑へ
悪魔のいない悲劇
核爆弾の力
舵取りのいない展開
エネルギーの方向転換のためのいくつかの洞察
ロータル・ハーンによるまえがき
時代についての一人の証言者の観察
第1章 第二次世界大戦の原爆製造プロジェクトから「原子力の平和利用」へ
広島とハイガーロッホ―歴史的な重荷を負った原子力コミュニティーと内部の不和
原子力政策――アデナウアー、エアハルト、ハイゼンベルク
原子力政策の原点――科学者か、産業界か
第二次世界大戦の遺物――重水炉とウラン遠心分離機
原子力エネルギーの経済的な基本的枠組み
原子力政策と公的な財政措置の展開
原子力産業と民間資本の好景気
第2章 「原子力の平和利用」という幻想――思惑の局面
原子力技術の意志決定の場と政治的なキーワード―イギリスの道か、アメリカの道か
「我らが旗印である天然ウラン」、そして、プルトニウムへの衝動――戦略的意志決定としての燃料の選択
原子力技術における進歩信仰――将来の原子炉「諸世代」を予告するもの
増殖炉陶酔の蜃気楼――核融合炉
「原子力の時代」という神話――1950年代の統合のイデオロギーとしての「原子力の平和利用」
枯渇することのない豊穣の玉手箱
原子力への陶酔の高まりとその終焉
押しのけられた太陽光エネルギー
原子力楽観主義と住民の不安
早すぎた楽観主義の破綻
「原子力時代」の政治的、イデオロギー的力点
社会民主党と「原子力時代」
ゲッティンゲン宣言の印象―平和利用対軍事利用
経済戦略の構成要素としての原子力エネルギー
電機産業主導下の原子力産業
在来型の発電所にあわせた原子力発電所
「エネルギー供給途絶」への恐れ―本当にそれはあったのか
原子力技術に対するエネルギー産業界の戦略
「エネルギー供給途絶」についての論議
石炭側の抵抗はどこで続いていたのか――回避された対立
二股をかけて保身を模索した空理空論――初期の原子力エネルギー戦略の基本的性格
原子力計画策定――国か産業界か科学者か
はっきりとせず、定まらない評価―原子力発電所開発における国家の役割
原子力省、原子力委員会、そして、原子力フォーラム
フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス(在任期間:1955〜56年)
郵政大臣から原子力大臣へ―ジークフリート・バルケ(在任期間:1956〜62年)
原子力省内のせめぎあい
ドイツ原子力委員会――見かけ倒しの優秀な頭脳
「エルトヴィレ・プログラム」――曖昧な政府の原子力計画策定
いきなり大規模な原子力発電所へ
原子力ナショナリズムとユーラトム政策
世界規模の競争――原子力政策につきまとう強迫観念
仮想の増殖炉競争
欧州原子力共同体とアメリカのユーラトムプログラムの失敗
フランスの原子爆弾の共犯者としてのユーラトム
虚構の崩壊――平和利用のみの原子力共同体
核兵器開発の原子力技術――「原子力の平和利用」の背後で
アデナウアーと原子力
第3章 つくり上げられた事実―計画にはなかった軽水炉の勝利
強化された国家介入――原子力エネルギーとエネルギー産業の方向転換
原子力発電所の国家助成モデルの生い立ち
熾烈な駆け引き――最初の実用原子力発電所の資金調達
シュトルテンベルク時代の原子力政策
原子力エネルギーに参入するための条件――RWE社
片隅から中心的な政策へと昇格した原子力政策
独り歩きする未来の原子炉――巨大研究独自のダイナミズム
増殖炉プロジェクトに巻きこまれたカールスルーエ――研究炉施設から巨大研究センターへ
大きな飛躍への途上
増殖炉と競合するユーリヒの高温ガス炉――企業のプロジェクトから巨大研究プロジェクトに
高温ガス炉開発競争
変容する高温ガス炉――未来の原子炉へ
科学者と産業界の間で――巨大研究の構造的問題
増殖炉建設への産業界の介入
カールスルーエの未来型原子炉にまとわりつく将来への不安
「天につばする者は……」――カールスルーエとユーリヒの競争と調整
あれも、これもの政策としての「原子炉戦略」
無計画な合従連衡による競合的展開――求心力を欠いた国、産業界、科学者
計画に反する軽水炉の一人勝ちと1960年代の原子力計画
ドイツ初の実用原子力発電所の原子炉タイプの選定
全体的な政治的環境と原子力政策
美しい建前としての計画づくり――紙の上だけだった1960年代の計画
凋落する重水炉―現役の原子炉と未来の原子炉の亀裂の拡大
原子力産業の最初の輸出受注
ニーダーアイヒバッハ重水炉原子力発電所のでたらめな終焉
カールスルーエの「多目的研究用原子炉」の運命
増殖炉タイプを巡る対立
増殖炉の「開発」は進化的な発展なのか
ナトリウム蒸気か、水蒸気か
負の学習過程としての増殖炉開発
核燃料サイクルにおける一貫性のなさとタイムラグ
使用済み核燃料再処理――「国家的な」という任務
使用済み核燃料再処理に関する初期の諸計画
最も嫌われたプロジェクト―カールスルーエ使用済み核燃料再処理施設を巡るいがみあい
再処理は、そもそも必要なのか
「核燃料サイクル」における目立たない部門
ウラン埋蔵地の開発
原子力産業への独占的な集中――ドイツ原子力委員会の寄生
核拡散防止条約を巡る対立
民生用原子力技術の現実の利益と先延ばしされた利益
原子力産業と核拡散防止条約を巡る対立
核拡散の危険に対する沈黙は続く
第4章 原子力関係者が目をそらしたリスクが世の中に衝撃を与える
原子炉の安全――原子力技術開発の傍流
「安全」の意味――一進一退の安全議論
なおざりにされた原子炉の安全研究
原子力政策の原罪――不十分な損害賠償義務
虚構の放射線許容量
初期の批判点――放射性廃棄物のジレンマ
挑発的なリスクの広がり――プルトニウムと使用済み核燃料再処理
正確さという単なる形式的なリスク対応――想定可能な最大規模の事故(GAU)
疑わしい進歩――原子炉リスクの定義における「確率主義革命」
原子炉リスクを限定する手段としての「安全哲学」
「固有の安全」という哲学
行き詰まった「工学的安全対策」という哲学
ベルリンの壁建設の背後で――西ベルリンにおける原子力発電所建設計画
大都市近郊への巨大化学産業の進出――RWE社を巡る競争と原子力紛争の拡大の始まり
安全議論に刺激を与えた、1000メガワット容量からの跳躍
地下施設の原子力発電所――排除された安全哲学
原子炉安全委員会のやり場のない怒り
噛みあわない展開――原子力のPRと現実
原子力産業界と原子力研究中枢機関における情報政策
メディアはどこにいたのか
原子力タイプを巡る議論の終結――選択肢の消滅
反原発運動が起きる
核兵器反対キャンペーンとの連続性と断絶
原子力施設への反対
地方自治体の抵抗
「時代遅れの」抗議――ウラン採掘に反対したメンツェンシュヴァント村
反対運動の国際的な前史―ボデガ湾からヴュルガッセンに至るまで
大々的な拡大――ヴィールからゴアレーベンに至るまで
反原発運動と平和運動との結びつき、そして、緑の党の台頭
「ドイツ人のヒステリー」とは――反原発運動の合理的な論理
チェルノブイリから福島まで
◎ドイツ民主共和国における原子力エネルギーの歴史に寄せて
頂点か、それともあだ花か
現実は陶酔感をもっては前に進まない
核燃料サイクルの完結はユートピアのまま
ますます抵抗にあう楽観主義
第5章 忍び寄る没落から明らかな没落へ
突然の暗転、故障、トラブル続きの原発、そしてズッパーガウ
新しい危険の温床―テロリズムと航空機
◎1986年のチェルノブイリの大惨事
【付説】チェルノブイリ大惨事の経緯
ブラントからコールまでの原子力エネルギー政策
原子力でいがみあう連邦と州
赤黄連立政権とその総括
関心と情報の欠如の間で――コール政権の原子力政策
批判者が枢要なポストに就く
脱原発を巡る右往左往
赤緑連立政権がコンセンサスをまとめあげる
原子力ロビーに屈したメルケル
◎2011年の福島原子力発電所の大災害
ついに脱原発
間違った方向への進展と誇大妄想
ゴアレーベンの惨事――原子力産業の最初の敗退
戦略上の判断ミス――THTR-300と沸騰水型原子炉の「建設方針69」
ビブリス原発を巡るRWE社とヘッセン州政府との長い争い
イノベーションの準備不足、実験による学習の欠如
ますます失われていく専門能力
ある種の誇大妄想がまだあるのか
「将来のエネルギーへの道」
前進する再生可能エネルギー
将来への覚悟ができなかったコンツェルン
将来への率直な問いかけ――メルケルの政府施政演説
総決算と展望
エネルギー産業における構造改革と新しいタイプの担い手の必要性
無意識のうちに収斂する利害関心
原子力に関する能力の衰微
世界に広がりつつある「ドイツ人の不安」
発明家精神の恐ろしいまでの萎縮
見たところどこにでもあるようなこと、というリスク
歴史的な瞬間を利用する
未来志向の政治――未知のものとのゲーム
行うことによって学ぶ――補助金と環境保護
国の干渉対市場の独占
多様な小道
エネルギー政策の論考に不足するもの
訳者後書き
索引
事項索引
人名索引