| 川道武男[著] 2,300円+税 四六判上製 256頁+口絵8頁 2015年2月刊行 ISBN978-4-8067-1486-6 砂かけ婆、鵺、天狗などの正体はムササビだと考えられている―― 古来日本人の生活に身近な哺乳動物でありながら、夜間、樹間を滑空し、妖怪と思われていたムササビ。 その謎につつまれた生態を、9年間におよぶ観察・調査から明らかにする。 山地から都市近郊の社寺林にも生息し、夜の森を秒速7〜13メートルで滑空するムササビ。 1回の滑空の水平距離は20〜30メートル。 9年間976夜の観察・調査で個体識別した117頭から、 1頭のメスと複数オスの1晩の交尾騒動、出産、子育て、食料事情と交尾の時期の関係など、 これまで明かされていなかったムササビの生態の謎に迫る。 |
川道武男(かわみち・たけお)
1944年富山県生まれ。1967年北海道大学理学部生物学科(動物学専攻)卒業後、同大学大学院博士課程、州立アラスカ大学北極生物研究所に所属。理学博士。
ナキウサギ、ツパイ、ムササビなど単独性哺乳類の社会を研究。
学生時代に世界を放浪し、独立したばかりのアフリカ諸国での野生哺乳類への無法な扱いを目の当たりにし、野生哺乳類の生態研究を決意する。
1970年代半ばより、居を京都に移し、奈良の社寺林でムササビを追う。
現在は、ムササビ論文の執筆と、リス・ムササビ ネットワーク事務局として会誌「リスとムササビ」を発行する。
著書に『原猿の森 サルになりそこねたツパイ』(中央公論社)、『ウサギがはねてきた道』(紀伊國屋書店)。
共著書に『レッドデータ日本の哺乳類』(文一総合出版)、『現代の哺乳類学』(朝倉書店)、『日本動物大百科 哺乳類T』(平凡社)、
『けものウォッチング』(京都新聞社)、『冬眠する哺乳類』(東京大学出版会)、『温暖化に追われる生き物たち』『移入・外来・侵入種』(以上、築地書館)など多数。
序 章 ムササビと生きる
第1章 滑空生活
ムササビとはどんな動物か
飛膜の構造
滑空の基本
滑空術
滑空かジャンプか
降りるのは苦手
第2章 ムササビ観察のコツ
出巣を確認する
滑空方向を予測する
発見と追跡
個体識別
追跡を記録する
自宅作業
観察道具
第3章 季節のメニューと食事マナー
季節が移ると
メニューの多様性
分布域での広食性
社寺林に生息する理由
食事のマナー
右利きか左利きか
第4章 巣と活動性
樹洞巣はどこ?
快適な屋根裏
皿巣とは
雌雄で違う巣の利用
巣を脅かすもの
ひと晩の動き
巣の出入り時刻
巣箱にビデオカメラ
第5章 行動圏となわばり制
行動圏の構造
メスのなわばり制
なわばりの変化
なわばりをもたないオス
第6章 交尾をめぐるオスの争い
交尾騒動
交尾日の夜
あるメスの交尾の歴史
オスの活躍
交尾日を知る方法
交尾への道のり
交尾日の追跡法
第7章 交尾栓の秘密
交尾栓の発見
精液の塊
栓抜きの形態
メスの計算とオスの戦略
齧歯類の交尾栓
第8章 交尾期が年二回ある理由
年二回の交尾期
交尾日の間隔
交尾期はなぜ初夏と冬なのか
年1回の睾丸の縮小
謎解きに挑戦
第9章 母と子
野外で出産を知る方法
子どもの成長と子育て
巣内の母子を撮影する
滑空を始める
子殺し
第10章 子どもの独立
同居するのは誰
仲のよい兄弟
睾丸の発達
子どもの独立過程
近親交配を避ける
寿命と捕食者
繁殖戦略を変えたムササビ
終 章 ムササビ研究への道
【付録】 人とムササビの長い関係――妖怪から観察会まで
あとがき
引用文献
索引
古い雨戸の隙間から、午後の光が射しこむ。明るくなってから就寝したので、深い眠りに入れないままに眼が覚めた。
疲れがとれた感覚はなく、足と肩にさらに疲労が蓄積したようで、体が重く感じる。しぶしぶ布団から抜け出て、食事をとり、調査道具を点検する。
ヘッドランプの断線がないか、乾電池の電圧が十分かを、チェックする。さらに予備の乾電池をリュックに入れる。
双眼鏡のレンズが汚れていないかを調べる。観察ノートの残りのページと、シャープペンシルの芯の予備を確認する。これで、準備完了である。
今日の観察予定である巣の木で待っていると、予定通りの個体がひょいと顔を出した。そのとたん、研究者のスイッチが入った。
この個体の最初の滑空を走りながら追いかけているのに、足と肩の疲労は消え去っていた。
私の調査地は有名な奈良公園である。ムササビは市街地に近い興福寺から春日大社まで、くまなく分布していた。
春日大社の境内は木が密生していて、かえって観察しにくい。出会ったムササビを一頭ずつ識別していくと、公園全体の65haを一巡するには数日かかる。
調査1年目の1978,1979年は、117頭を個体識別した。65haの広大な面積を歩き続け、
次々と現れるムササビの個体識別に追われた。それぞれの行動圏を描いて、メスのなわばり制と、雌雄の空間構造を把握できた。
そのため、交尾騒動(124頁参照)に遭遇しても、まさに偶然の出来事で、とても交尾データがとれるとは思わなかった。
1981年に菅原光二氏のムササビ写真集が出版された(菅原 1981)。そこで交尾期が年2回あることを初めて知り、
すばらしい交尾騒動の写真に目を見張った。そこで改めて、今までの研究方針を転換して、交尾・繁殖戦略を研究の中心にすえることにした。
これまでの調査範囲を半分にして、上部(北部)の30haに縮小した。観察対象となるメス成獣を減らし、
交尾、出産、子育ての繁殖過程をすべてつかもうと意気ごんだ。こうして、1983年4月から1991年1月まで8年間は、交尾期に全エネルギーを注いだ。
交尾を観察するために要したのは年2回、合計16交尾期間の976夜であった。35頭のメス成獣を観察し、そのうち13頭は6交尾期以上を観察した。
集中観察を開始するにあたって、最初の課題は全員の個体識別であった。12倍の双眼鏡でも識別ができたが、
発売してまもない16倍までのズーム双眼鏡で、識別の問題は解決した(第2章)。次は、夜間撮影の機材の選択であった。
なるべく明るい望遠レンズ、望遠レンズの倍率、なるべく強いストロボが必要であった。
どのメーカーのどの製品を選択するか、「40の手習い」とつぶやきながら、なんとかムササビの全身が入り、
ピントのあった滑空写真をめざしてあれこれと工夫する時間が楽しかった。
交尾期は年2回あるというものの、それぞれの交尾期がいつから始まり、いつ終わるかは、わかっていなかった。
そこで、最初の交尾日を見逃さないように、初夏の交尾期観察は4月30日から、冬の交尾期観察は10月1日からスタートした。
結果として、これらの観察開始日は交尾期の1カ月前であった。
各交尾期ですべての定住メスの交尾日を知ろうと頑張った。毎日、毎日、雨の日も、少々熱があっても、調査地に通い続けた。
双眼鏡とカメラの重みが首枷のように痛み続ける。
40代の肉体にとって限界に近いと自分で感じていた。
交尾期間中、1カ月に2,3日の休みをとった。休日は、交尾騒動の兆しが何日にもわたって見られない日の翌日と、雨がひどい日である。クリスマスも大晦日も正月も休みはなし。
帰り道に、クリスマスイブの夜にレストランで談笑するカップルを横目に通りすぎる。大晦日でにぎわう人々の間を足早で通りすぎて調査地に向かう。年末から正月は交尾が多く見られるので、正月も休むわけにはいかない。
参拝客にじゃまされないように、暗闇から暗闇へと動き回る。今日こそは交尾日と確信して、土砂降りに近い雨の中でメスの出巣を待った。
最初の交尾は確認できたが、双眼鏡も濡れてかすみ、雨が眼薬のように飛びこんできて、やむなく観察を中止した夜もあった。
長い調査年月にはいろいろなことが起こった。暗闇でヘッドランプが動き回るのを遠くから見て、「キャー、きつね火」とあわてて逃げる女性もいたし、
酔っぱらったお坊さんが嫌みを言ってきたり、ホームレスらしい男が私を警官と間違えて急いで木に登り、警官でないとわかると逆に脅された。
パトロール中の警官に「何をしているんだ」と職務質問され、「闇夜のカラスを追いかけています」と言って、ライトを消して藪の中を忍者の如くに
すばやく動くと、二人の警官は襲撃を恐れたのか逃げ出してしまった。
最も困ったのは、近所の家の飼い犬が吠えることであった。私を警戒して鳴きやむことがないので、深夜に家人が起きてくる。
吠えた相手が私とわかると、今までの鬱憤が爆発したのか脅しを受けて身の危険を感じた。
重要な巣がその家の近くにあったが、やむを得ずその巣の観察を中止した。
交尾の夜、走り回って数時間、最後のオスが交尾を終えると、安堵感と疲労感に襲われる。
メスは熱心に下腹部の毛づくろいをしたり、交尾栓を押し出して食べ始めたりする。やがてメスが独りで採食を始めると、帰宅につく。
今日のめまぐるしい騒動や交尾のシーンが次々と脳裏に浮かんでくる。それらのシーンから、メスの移動ルートとオスの交尾順を脳裏で再現する。
交尾日の追跡がうまくいった日、交尾順の追跡が不完全であった日、どちらの場合も、次の交尾観察につながる決意になる。
そのようなことを思い浮かべることすらできない疲れた夜も多かった。翌日に授業があると徹夜で観察したまま大学へ行くのだが、
ぼんやり歩いていて財布を落としたこともあった。つくづく人間は夜行性にはなれないと悟った。
体力的に苦しかったが、調査そのものはじつに楽しく、自然科学に携わる喜びに浸った九年間であった。
こうやって私が知り得たムササビの世界をやさしく解説した。
さあ、本書を読んで近くの社寺へムササビ観察に出かけよう。明るいうちに社寺の観察許可を忘れずに。