| デイビッド・ウォルトナー=テーブズ[著]片岡夏実[訳] 2,200円+税 四六判上製 224頁 2014年5月刊行 ISBN978-4-8067-1476-7 「うんち」と「科学」――語源は同じだと知っていましたか? 昆虫の糞から、ヒト、ゾウのウンコまで、あらゆる排泄物を知り尽くした獣医・疫学者である著者が、古代ローマの糞尿用下水道から、糞尿起源の伝染病、下肥と現代農業、大規模畜産とパンデミック、現代のトイレ事情まで、芳(かぐわ)しい文明史と自然誌を描く。 |
デイビッド・ウォルトナー=テーブズ(David Waltner-Toews)
グエルフ大学名誉教授。獣医師、疫学者、作家、詩人と多彩な顔を持ち、「国境なき獣医師団」創設者として、動物と人間の健康、コミュニティの持続可能な開発、貧困の解消に取り組んでいる。その著書はノンフィクション、小説、詩など多岐にわたる。
片岡夏実(かたおか・なつみ)
1964年、神奈川県生まれ。主な訳書にマーク・ライスナー『砂漠のキャデラック アメリカの水資源開発』、エリザベス・エコノミー『中国環境レポート』、デイビッド・モントゴメリー『土の文明史』、トーマス・D・シーリー『ミツバチの会議』(以上、築地書館)、ジュリアン・クリブ『90億人の食糧問題』、『瓶詰めのエネルギー 世界はリチウムイオン電池を中心に回る』(以上、シーエムシー出版)など。
序章 フンコロガシと機上の美女
第一章 舌から落ちるもの
第二章 糞の成分表
第三章 糞の起源
第四章 動物にとって排泄物とは何か
第五章 病へ至る道――糞口経路
第六章 ヘラクレスとトイレあれこれ
第七章 もう一つの暗黒物質
第八章 排泄物のやっかいな複雑性とは何か
第九章 糞を知る――その先にあるもの
参考文献
訳者あとがき
序章 フンコロガシと機上の美女
私たちを乗せた単発4人乗りの飛行機が短い滑走路をなめるように降下すると、のっぽのキリン、サル、インパラが赤い土の上を跳ねまわり、草原の木の下に逃げ込んだ。それからの数日、サファリ・トラックから、私たちはライオンの親子が車の影の中で子猫のように遊ぶのを見た。耳を大きく広げた巨大な雌ゾウに突進された。「威嚇している。じっとして」ガイドは言った。私たちは身を固くした。ゾウは20メートル先で急に止まり、向きを変えて家族のほうへとゆっくりと去っていった。私たちは少しずつ緊張を解いた。ジントニックを呑みながら、カバが川の中でのらくら過ごすのを見た。夜には彼らのうなり声と小屋の脇を歩くドタドタという音が聞こえた。夕食後、ランタンと槍を手にしたマサイ族のガイドに案内されて小屋に戻るとき、ハイエナが闇の中に去っていくのがちらりと見えた。ハチクイ――緑と白と黒が目にも鮮やかな鳥――が、川に沿った土崖の小さな横穴に勢いよく出入りするのを横目に、私たちのボートは通り過ぎていった。コウノトリ、セイタカシギ、ヘラサギ、シギが浅瀬を優雅に歩いていた。
俗世を離れたサファリの5日目か6日目、昼近くの焼けるような熱気の中、てっぺんが平たいテルミナリア・スピノサ(沈む夕日を背景によく被写体になる、典型的なアフリカの木)の灰色の枯れ木と、ねじ曲がった深緑の灌木にはさまれて、緑の縞の入った麦わら色の草が広がっているその中を、私たち10人は2人のガイドについて歩いていった。アフリカ全土でもっとも驚きと多様性に満ちあふれる自然公園、タンザニアのセルー動物保護区は乾期だった。私を除くグループのほとんど全員が、ゾウやライオンやアフリカスイギュウやイボイノシシを警戒し、出くわしたときに逃げる車がないので神経をぴりぴりさせていた。この緊張はガイドの一人のムパトが、必要とあれば怒れる巨獣をも叩き伏せる大型ライフル銃を担いでいたことで、いやが上にも高まった。
私がガイドを独占して動物の糞を探すのを手伝わせていたことも、他の参加者がうんざりしていた理由だった。アフリカまでウンコを見に来るなんて、どこのバカだ? いや、私は獣医なんだ。おかしくはないだろう?
(中略)
古代エジプト人にとって、スカラベは不潔と糞便の象徴ではなく、死と復活、再生、生まれ変わりを連想させるものだった。無から自己を創造したケプリ神は、闇の中に太陽を転がし、毎朝新たに昇らせる。同じようにスカラベは玉を地下の世界へ転がしていき、そして15から18週間後に生まれ変わる。だから、スカラベを表わす言葉と絵は「誕生する」という意味を持ち、また貴金属や宝石、骨、象牙細工のモチーフとして、エジプト地域の葬式に、「ミイラ」もののB級冒険映画に、スカラベが登場するのだ。
アフリカに来た観光客のほとんどは、インパラやゾウといった人気者の大型動物には注目するが、そうした大きな動物たちの生息地であり、生存を可能にしている環境の形成を助けるもっと小さな生き物に注意を払う者は少ない。人類の進化の初期に、食料となる動物や脅威となるかもしれない動物に注意することは、理にかなっていた。しかし21世紀の今、私たちが目を向けない、当面何の役に立つのかわからない動物――例えば糞虫――が消えることこそが、人類にとって最大の脅威となるかもしれないのだ。糞虫サファリには次世代のエコツーリズムとしての見込みが大いにあってしかるべきだ。
2匹の東アフリカ産糞虫が働いているところを見ながら、この生き物は単に珍しいというだけのものではないと、私はつくづく思った。数十年にわたり食物と水が媒介する疾病の疫学を教えている間、糞玉の中に棲む糞虫の幼虫のように私の中に巣くってきた疑問を、彼らはさまざまな形で具体化して見せているのだ。なぜ、どのようにして排泄物が、過去わずか数千年の間に解決しなければならない問題になったのだろう? 地球の回復機能のために、それは絶対に必要なものであり、長きにわたる進化が生んだ無数の生物学的問題を実際に解決してきたにもかかわらず。生命が生命へとつながっていく驚異の網の目の中を舞うというやりがいのある仕事が、いつから持続可能な畜糞の管理という問題になったのだろう。
毎日、世界中で、糞虫は他者には不用物と思われるものを食べ、あるいは埋めることで、水をワインに、汚染された廃物を生物の住める環境に変えている。それは糞のわらから黄金を紡ぎ出す、動物界のルンペルシュティルツヒェンだ。私たちが住む生態系の復元力と健康のために欠かせない、栄養とエネルギーのフィードバック・ループを彼らは閉じる。我々人間は彼らから学べないか?彼らから学ぶ意味はあるだろうか?俗に言うように、クソの役くらいには立つのだろうか?
ここ数年、次のような話のさまざまな変種がインターネット上に出回っている。
紺のスーツを着た男が飛行機の通路を歩いていた。彼は自分の隣の座席にいるのが美人だと知り、うれしくなった。男は上着を脱いで丁寧に畳むと、頭上の荷物入れにしまった。それから腰を下ろし、ネクタイを緩め、コンピューターを前の座席の下に収めると、女のほうを見た。彼女は本を読んでいて、顔を上げない。男は咳払いをして言った。「飛行機の中では、お隣になった人とお話をしていると、いつも目的地に早く着くんですよ」。
女はゆっくりと本を閉じ、目にかかるウェーブした黒髪をかきあげ、言った。「いいですよ。何の話をします?」
男は言った。「そうですねえ。何でもいいですよ。原子力の話なんかは?」
女は溜息をついた。「ちょっと面白そう。でもその前に一つ質問してもいいかしら?」
「ええ」男は答えた。「いいですとも」。
「ウマも、ウシも、ヒツジも、みんな草を食べます。でもヒツジはぽろぽろしたものを排泄します。ウシのは丸くてべたっとしています。ウマが出すものはライ麦パンみたいです。どうしてでしょう?」
男は肩をすくめ、にやりと笑った。「さあねえ」。
彼女は男を見据えた。「クソのことも知らないのに、原子力の話をする資格が自分にあると、本当に思ってるの?」
女は本を開いて再び本を読み始め、飛行機は離陸した。
ジョークを分析するのは常に危険なことだ。そのジョークがいささか品のないネタを扱っていればなおさらだ。しかし私はあえて分析することにしよう。というのは、私がこの本でこれからする話は、飛行機ジョークを中心に組み立てられたものだからだ。この運の悪い男性旅行者は、排泄物についてあまりよく知らないという落とし穴にはまって、何についてもよく知らないと責められている。それどころか、この女性が「クソ」という言葉を使ったことは、三重の意味で脅威である。彼女は男性の生物学の知識と、人生全般についての知識の欠如について皮肉を言っているだけではない。普通はバーで酔ってうっかり口走ってしまうか、ロッカールームでホルモンにまかせた強がりを言うための言葉を使っているのだ。つまり彼女は、この話題がきわめて重要であることを暗示すると同時に、そこに悪意を込めているわけだ。望まない男性からの興味をそらす技術に精通した若く美しい女性として、彼女はこの矛盾したこき下ろしを言ってのけた。これに勝てる応答はあるはずがない。
私はこの男に少なからず共感を覚える。この人は飛行機の中で気晴らしのための会話をしようとしているわけで、私自身しょっちゅうそういう状況に置かれるからだ。私がこの不運な男に共感する理由はもう一つある。獣医として私は、時に腕をウシの尻に突っ込んだり、イヌの糞を検査したり、動物の排泄物でいっぱいの排水溝に寝転がったり、最近では糞口経路というもの(これはグーグルマップでもマップクエストでも見つからない)によって感染するヒトと動物のあらゆる病気について真剣に研究したりしている。それでも、本当はそいつについてほんの少ししか知らないことに、この仕事に就いてずいぶん経ってから気がついた。
糞虫をじっと見ながら、真昼の太陽に炙られた頭のおかしな白人、すなわち私は悟った。人類が21世紀を生き延びるという複雑な課題を前に、糞虫が糞虫としてだけでなく、解決策を考え出す手本としてなぜ重要であるのかを理解するには、まずもっと大きな文脈、我々すべてが根ざしている世界について理解しなければならないのだ。
私は、食品や水を媒介とするヒトの疾病を数十年研究してきて、排泄物と、それをどう見るかが、自分の大きな関心事――文化、食物、健康、生態系の持続可能性――と深い関係を持つことに気づいた。特に生態系の持続可能性は、それなしには何も存在できない。機上の若い美女は、文句なしに正しい。実際、馬糞と牛糞の、ウンコと肥料の区別がつかない人は、おそらく原子力の話をしないほうがいい。原子力産業に(政治、経済、エネルギーのどの形にせよ)関わる人間の大部分はこの話題について知的な話をできないという事実が、もっとも本質的な生物としての自己から私たちがまるっきり疎外されていることを原因とする、根本的な無知を表わしている。
排泄物の扱い次第で私たちは、ある種に食物を与え別の種から奪う、また、ある生態系を破壊し別の生態系を作りあげる選択をすることになる。きわめて多様性のある生態学的機会のように思われるのに、なぜウンコはこれほど大きな公衆衛生および環境上の問題になったのだろう?ウンコについての考え方を改めない限り、私たちは永久にその中で生きる運命にある。あるいはたぶん、もっと正確に言えば、私たちはすでにその中で生きており、いつまでも生きていくことになり、考え方を変えなければ、自分たち自身にとって実に困った問題を作り続けることになるだろう。
本書は私たちの無知を改め、分別をつける(ダジャレにあらず)ことを目指すものだ。だがそれ以上に、本書は知ることを通じて、あらゆるものの根本にある統一的実在、説明しにくいすべての存在の基礎へと至ることも目的としている。古代中国人が道と呼び、中東の諸部族が「我在り」と呼ぶものだ。これが糞便についての小著には野心的すぎる仕事だと思われるなら、また糞虫のような小さな動物に負わせるにはあまりに重荷だと思われるなら、この本はまさにそんな読者のために書かれたものだ。
我々人類は、地球創生期のごたまぜのスープから長い道のりを経て高度な現代文明を達成したが、今も本質的には動物だ。富める者であれ貧しき者であれ、権力者であれ被抑圧者であれ、聖職者であれ無政府主義者であれ、神人であれ猿人であれ、我々は未だに腸内の物質を押し出さねばならない。我々の中から、そしてすべての動物の中から出てくるこの物質を生態学的な統一原理として、我々の進化の起源や根ざしているものまで遡って理解することができれば、まわりに見えるウンコすべてと落ち着いた幸せな気持ちで付き合うことができるようになる。
この本を読んで、ウンコを知ろう。