![]() | 清和研二[著] 2,800円+税 四六判上製 304頁 2013年10月刊行 ISBN978-4-8067-1467-5 日本列島に豊かな恵みをもたらす多種共存の森。 その驚きの森林生態系を最新の研究成果で解説。 このしくみを活かした広葉樹、針葉樹混交での林業・森づくりを提案する。 |
清和研二(せいわ・けんじ)
1954年山形県櫛引村(現 鶴岡市黒川)生まれ。月山山麓の川と田んぼで遊ぶ。北海道大学農学部卒業。
北海道林業試験場で広葉樹の芽生えの姿に感動し、種子の散布から発芽・成長の仕組みを研究する。近年は多種共存の不思議に魅せられている。
針葉樹人工林の施業にも長く関わり、生態系と調和した1000年続く林業を夢見る。戦後開拓の放棄田跡に住み、クマ・カモシカ・タヌキ・キジ・コルリ・マムシ・オニヤンマなどとの生活圏の境界の曖昧さに一喜一憂しながら暮らしている。
趣味は焚き火、植物スケッチ、食物の採取と栽培、木工、ハンモック。
現在、東北大学大学院農学研究科教授。
著書に『発芽生物学』、『日本樹木誌』、『森の芽生えの生態学』、『樹木生理生態学』、『森林の科学』など(いずれも編著または共著)。
まえがき
序章 消えた巨木林─生物多様性の喪失─
憧れの巨木林
単調になった森
巨木の森を伐って何を残したのか
T部 多種共存の仕組み
1章 病原菌が創る種の多様性
ジャンゼンが見つけた森の秘密
親から離れた子どもだけが大きくなれる
どの種も同じ仕組をもつ
親木の下では多種の子どもが生き残る
種特異性という不思議
真上から降ってくる葉の病気
種子散布の進化を促す
2章 森を独占したがる種とそれを防ぐメカニズム
先駆種は純林をつくる、しかし遷移が進む
菌根菌が純林をつくる!?
ブナは森を独り占めしない─地すべりでリセット
3章 環境のバラツキが種多様性を創る
棲み分ける─ニッチ分化説
中庸を旨とする─中規模攪乱説
4章 森羅万象が創る多種共存の森
最大樹高
スーパーマンは居ない─トレードオフという自然界の掟
温度や降水量と菌類や植食者との関係
自然のメカニズムと森林施業
U部 多種共存の恵み
5章 生産力を高め、人の生活を守る
生産力を高める─草地ではあたりまえ
洪水と渇水を減らす─地上と地下の関係
水を浄化する
害虫の大発生を防ぐ─天敵の常駐
病気の蔓延を防ぐ
ナラ枯れと生物多様性
クマを山に留め置く─エサの多様性
生産が持続する─変動環境の克服
生態系機能と森林認証
6章 さまざまな広葉樹の無垢の風合い
100種を使う建具店
シオジの輪切り
嫌われ者、ニセアカシア
買い取り林産という悲劇
コナラ・クヌギの家具
雑木の魂─1千万分の1の命
7章 食と風景の恵み
森を食べる人々─鬼首の大久商店
森のグルメ本─『摘草百種』
蜂蜜の採れる森
毎日見る風景
都会にこそ広葉樹林を
鞭撻者
V部 多種共存の森を復元する
8章 針葉樹人工林を広葉樹との混交林にする
トドマツ人工林の自壊と再生
先駆者、伊勢神宮林
混交林化の技術開発が始まっている
広葉樹林に近いほど多くのタネが飛んでくる
間伐すると広葉樹林から遠くても実生が更新する
強度間伐するとなぜ種数が増えるのか─発芽を促す
経営目標を実現する間伐の強度
帯状皆伐で境界効果を活かす
馬搬
混交林化し易い地域と難しそうな地域
広葉樹を植える─精英樹・密植・パッチワーク・菌根菌
再造林は超疎植に─無駄をなくす
9章 生物多様性を基軸に据えた境目のない曖昧なゾーニング
新しい森林計画制度とゾーニング
森林・林業再生プランとゾーニング
生物多様性を基軸に
たとえ1等地でも混交林に─有用広葉樹の導入
2等地、3等地では広葉樹の混交で生産力アップ
すべての広葉樹を生産目標に
水辺林の機能を取り戻す
奥地林は巨木の森に
天然林の木材生産─生物多様性と生態系機能を高めながら
日本の山村とヨーロッパの山村─ゾーニング嫌い
10章 森と人が共生する社会
山村で暮らせるか─収入源は生物多様性に富む森
薪は裏山から
震災から立ち上がる三陸の人々
あとがき
老熟した天然林の調査によくでかける。一つは森が創られる仕組みを明らかにするためである。もう一つの理由は、太い木々に囲まれると気分が妙に落ち着くからである。最近、よく行くのが岩手と宮城の県境にある自鏡山というピラミッド型の小さな山である。そこに残された森に一歩足を踏み入れると、まさに別世界である。巨木たちが天を衝いて聳え立っている。一番太そうに見えるブナとコナラの胸の高さでの直径を測ってみたところ、それぞれ1.3m、1.4mもあった。大人3人が手をつないでやっと抱えるほどの太さである。それだけでない。森の中を歩くと直径1mほどのイヌブナ、イタヤカエデ、イヌシデ、ハリギリ、ケヤキなどが30mから40mおきに次から次へと現れてくる。まさに巨木の大神殿である。今どき、このような森が残っていること自体が奇跡のように思える。それ以上に、不思議に感じることがある。「そんなに広くもない森の中にいろいろな種類の巨木が共存している」ことである。
普段、我々がよく目にするのはスギやヒノキなどの人工の林だ。1種類の針葉樹が整然と並んでいる光景は、自鏡山などと比べると、まるで畑のようである。身近な里山の広葉樹林も思いのほか単純な構造をしている。炭焼きや椎茸原木などに使うため萌芽更新を繰り返しているので同じサイズのコナラやクヌギが主体になっている。これらの林は欲しい種類の木がなるべくたくさん採れるように、人間が手をかけて誘導するので単純な構造になるのは誰にでも分かる。しかし、人の手が長い間ほとんど入っていない天然林では多くの種が共存しているのはなぜなのだろう。
たまたま偶然に混じり合っているだけなのだろうか。それとも天然林には多くの樹種が混じり合うようになる、なにか「特別な仕組み」が隠されているのだろうか。その仕組みを探ろうと長い間研究してきた。何haもの大きな試験地を作って木の成長や死亡の過程を何年も調べた。また、いろいろな種類の木のタネを播いて発芽した実生がなぜ早く死んだり、大きく成長できたりするのかを調べたりしながら研究を続けてきた。しだいに、森は誰にも見せない精妙な仕組みを少しだけ見せてくれるようになった。最初は、光・水・土壌などの無機的な環境の違いがたくさんの樹種の共存を促すと考えていた。実はそれだけではないことが、近年分かってきた。種子を運ぶネズミや鳥、葉を食べる虫たちや目に見えない菌類などさまざまな生き物たちとの関わりによって、長い時間をかけて多くの樹木が共存する森が創り上げられていることが分かってきた。樹木はさまざまな生物に食べられるだけでなく、それらをうまく利用したり、時には共生しながら生き延び、しだいに大木になっていく。その過程でいろいろな樹種が混じり合った森が創られていくのだ。
天然の森が創られていく道筋は一見不可思議だが、長い進化の過程で発達してきた「生き物どうしの精妙な関係」が多種共存の森を創り上げていることが分かってきた。
しかし、このような自然の傑作ともいえる老熟した巨木林はもう日本には数えるほどしかない。古い時代に伐り尽くされた所もあれば、つい最近まで残っていた所もあった。いずれにしても、今の日本には巨木の森はほとんど残っていない。とても残念なことである。天然林を伐採した跡は、不便な奥地ではそのまま放置されたが、ほとんどの場合は針葉樹が植えられていった。もちろん、自鏡山の周囲もすべてスギ人工林である。巨木の森はスギ林の大海に浮かぶ小島のように孤立している。職場から自鏡山までの一時間の道中、車窓に映る風景に広葉樹林は少ない。尾根筋や急な斜面など山の上の方には見られるが、山腹のほとんどはスギの植林地である。このように日本中、色々な種類の木々が複雑に混じり合った天然林があっという間にトウモロコシ畑のような単調な人工林に置き換わったのである。
人工林造成の目的は成長の早い針葉樹を高密度に規則正しく植えることによって、大量の木材を早く収穫することである。しかし、日本中どこを見ても、当初の目的が達成されている林は極めて少ないようである。ほとんどが込み合っている。植えてから一度も間伐がされていないような林も多い。中に入ると真っ暗で、細い木が立ったまま枯れている。雪の重みで重なって倒れている所もある。林床にシダが少し見られる程度でもちろん獣や鳥の気配もない。このように誰も訪れることもなく打ち捨てられた針葉樹人工林が日本中どこに行っても見られるようになった。放置されても所有者が儲からないだけならそれでも仕方ないだろう。しかし、森林には本来、環境を保全するさまざまな公共的なサービス機能がある。したがって、管理せず放置すれば地域の人に有形無形の迷惑をかけることになる。特に込み合った針葉樹人工林では、洪水や渇水を防いだりする機能が格段に落ちていることが報告されている。また根が土壌を縛り土砂の流出を防止する力も落ちている。いわゆる「間伐遅れ」によって森林が本来もつ公益的な機能が大きく劣化しているのである。
どうして日本の森林はこんなことになってしまったのだろう。天然林は伐採され細くみすぼらしいものになっただけでなく、せっかく造った人工林までも放置され病んでいる。戦後長い時間をかけて、人工林における「効率的な木材生産の方法」が研究されてきたはずである。スギやヒノキ、カラマツの成長に適した立地環境が詳しく調べられた。通直で早く大きくなる「精英樹」が選抜、育種され、その効果が膨大な数の検定林で調べられた。太い木を早く収穫するための密度管理の理論や収穫量を予測する数学モデルが発達した。造林木の病虫害防除や気象害の研究も盛んに行われた。針葉樹の植栽・下刈り・間伐・枝打ちなどの保育作業には政府から補助金が出され、産官学こぞって人工林の経営の合理化・効率化のために働いてきた。しかし、膨大な人工林は間伐もされず放置された。これだけ「科学的」にそして「精力的」にやってきたはずなのに。なぜだろう。
人工林が放置されてきたのは経済的なことに原因があると考えられてきた。今でもそうである。安い外材が輸入されるようになると、地形が急峻で伐採・搬出コストの高い国産材は割高で売れないのだという。また、居所の分からない零細な森林所有者が複雑に絡み合っていて土地利用の集約化が進まなかったことも大きな原因だと言われる。したがって、経営の集約化を図り、林道網の整備や高性能大型林業機械の導入が進めば生産効率が上がり外国産材に価格面でも対抗できるようになり、間伐も進み、林業も産業として成り立っていくだろう、というのが大方の意見のようだ。木材を生産する上で林道網の整備や不在地主の解消は必要だろう。しかし、経済的な効率さえ上がれば針葉樹材は売れるようになり間伐も進むのだろうか? 費用対効果を上げることだけで明るい未来が見えるのだろうか? 背後には短期的に経済的「効率を上げる」こと以上にもっと本質的なことがあるような気がする。
そのヒントを、図らずも2011年の東日本大震災の原発事故が教えてくれているような気がする。なぜ、原発なのか? 自然を生かした産業である林業を人工の極致にある原発に例えるのは林業の関係者には申し訳ない。しかし、両者の底に流れるもの、両者の方向性になにか似たようなものを感じるのである。
原子力発電は「発電効率の高さ」を売りにしてきたが実は極めて非効率だということが明白になった。これまで原発は放射性廃棄物の処理や貯蔵にかかる「長期的なコスト」を棚上げにしたまま、「短期的な効率」の高さをアピールしてきた。しかし、福島第一原発は地震と津波でいとも簡単に崩壊し、天文学的な被害をもたらし、汚染された地域の人々の長く続く精神的な苦痛まで含めると、そのコストの高さは計り知れない。どう逆立ちしても効率的だとは言えないことが明らかになった。大地震や大津波といった自然の猛威を甘く見たのは、彼らの科学の体系が「地球の時間」を理解していなかったためであろう。人間の寿命の尺度で測ることが出来ない大きな猛威が自然界では時に起きるのである。森林の調査をしているとそのことが良く分かる。それ以上に問題だと思えるのは「自然界に存在しない毒物を地球という生態系の表層にバラ撒くとどうなるのか」、といった簡単な想像力が欠如していたことである。原発は自然生態系に存在しない毒物を人工的に生み出し、人間をはじめ多くの生物が棲む地球の表層に貯蔵しながら発電するシステムだ。
しかし、その毒物は地球生態系が長い進化の上に獲得した環境浄化機能では無毒化できないものなのだ。一旦それが地表面にまき散らされてしまうと人間の力でも生態系の力でも手に負えなくなってしまう。原発の発電システムは物質循環とか食物連鎖といった地球生態系固有のシステムを完全に無視したものなのである。自然生態系の研究者なら常識のことである。このまま毒性の高い廃棄物を作り続け、そして、地球のどこかで「想定外」の天災に見舞われるならば、無毒化されない毒物は生物の棲む地球の表層に広がり蓄積され、生物濃縮により地球生態系全体を汚染し、ひいてはその頂点にある人類そのものが棲めなくなるのは間違いない。原発を地球温暖化防止の切り札のように宣伝してきたが、地球を一つの生態系「エコシステム」として考えるならば、所詮「エコ」ではなかったのだ。地球生態系の環境浄化能力や環境収容力の限界をもうとっくに超えてしまっているにもかかわらず、原発を維持し経済を成長させなければならないといった強迫観念は、どこからくるのであろうか。
地球温暖化を防止しつつ経済成長も可能だという「魔法の効率」を実現できると言われてきたのが原発なのである。誰が言ったのか、所詮、そんな都合の良いものではなかったのだ。
まったくの極論で恐縮だが、「短期的には効率的に見えても、長期的に見れば必ずしも効率的ではない」という意味において、林業も同じように思える。今、経済的な効率だけを追ってもモノが売れない時代になりつつある。安ければ買うといった時代から、地球環境や自然生態系と調和した産業でなければモノを買わないといった時代になりつつある。環境と調和しない状況で作られたものを買い続けるならば万物の霊長とはいえ永くは生きていけないのである。特に、「自然」に大きく依存する農林水産業では、そのことに気付き始めている。生産性の向上・効率化を目指すことそれ自体が問題なのではなく、効率化が「自然のメカニズムに沿ったものなのか?」が問題なのである。
特に林業において見習うべき自然のメカニズムは、やはり老熟した天然林が教えてくれるような気がする。もし、本来の森林と呼べるものは「生き物たちの精妙な関係が創り上げる」ものであり、それが「生物社会の論理」であるとすれば、林業のような自然を基軸にした産業もその論理に従った方が安定して持続的な木材生産ができると考えられる。この数十年間、老熟した天然林の精妙な仕組みを知れば知るほど、人工林が何か不安定なものに思えて来たのは多分そういったことが朧げながら感じられたからなのだろう。もともと、林業という産業は他の産業に比べればあまり人手をかけずに自然の生態系の中で行う産業である。農作物の生産には年に数十回も人手をかける。人工林の下刈りは毎年だが長くても5、6年で済む。間伐は5-10年に一度である。一次産業の中でもとびきり自然任せの産業なので、周囲の自然生態系と最も調和した産業であるべきなのだ。
ここで、少し冷静になって考えてみよう。今更、ここで私が主張するまでもなく「林業は自然と調和した産業だ」と良く言われてきた。当たり前のことのように思える。しかし、現実は違うのである。天然林が創り上げられる仕組みが明かされつつあるにもかかわらず、針葉樹人工林の「森づくり」にはほとんど応用されてこなかったのだ。つまり、天然林での研究は人工林を造り管理していくことにはあまり役に立ってこなかったのが事実である。そもそも、畑のような場所で木材を生産する「林業」者にとっては、天然の森が創られる仕組みなぞはもともと何の参考にもならないし、参考にする気もなかったからである。最近では、少なくなった老熟した天然林は保全の対象であり、木材生産を目指す人工林とはそれぞれの目的が全く違うので「両者を同じ土俵に載せる必要がない」と考えるのが大方の意見だろう。別の視点から見れば、多分、森が創られる仕組みがあまり良く分かっていなかったので「仕方がない」面もあっただろう。日本では人工林を造る「造林学」より天然林の仕組みを解明する「森林生態学」の方が後から発達したからである。
しかし、この「仕方がない」が日本の林業、いや世界の林業を誤らせた大きな原因だと思えるようになってきた。なぜならば、天然林が創られる仕組みをもし理解したら、今行われている林業がどれくらい自然のメカニズムから大きく掛け離れているのかが納得できるであろうからだ。なぜ、「仕方がない」ではダメなのかを本書を最後まで読んで考えていただきたい。天然林も人工林も同じ森なのである。両者はあまり違い過ぎては良くないのである。
このような意見は経済を知らない自然信奉者の考える極論だ、と相手にしない人も居るだろう。一方、お前の言っていることはなにも目新しいことではない、すでに議論は進んでいると思われる人もいるだろう。なぜならば、森林や林業を巡る動きにも地球環境や自然生態系に配慮する動きが出始めているからである。2006年から林業白書には、「生物多様性の保全」を森林の役割の第一番目に据え、林野政策の中心課題に据え始めた。さらに、「針広混交林化」という施策も打ち出した。「針葉樹人工林に広葉樹を導入し、多様な種から構成される針広混交林を作ろうとする」もので「広葉樹林化」ともいわれている。例えて言えば、自鏡山周辺のスギ人工林に広葉樹を混ぜて、少しだけ自鏡山のような天然林に近づけようといった試みである。木材生産を人工的なシステムから自然生態系本来のシステムに近づけようとするものである。驚くことに、このような針広混交林化はすでに各地で始まっているのである。
しかし、生物多様性を回復することの「科学的な根拠」はまだ曖昧なままである。ただ時代の流れ、いわゆる「はやり」に乗って皆が同じように動き始めているだけのような気がする。戦後の大面積皆伐とその跡地での単純林造成といった「拡大造林」は、その後の生態系に与える影響などをあまり考慮することなく実行された。そしてその影響の検証も未だに済んでいない。生物多様性の回復も、その根拠の希薄さのまま実行に移されようとしていることにおいては、針葉樹人工林の大造成の時代と基本的には同じことのように思える。拡大造林を押し進めていた時代に職を得て森林科学(林学)や生態学に長年身を置いてきた者として、これまで自分が研究してきたことや見聞きしてきたことを一度振り返って「生物多様性の回復の論拠」を冷静に考える必要があると感じている。
本書では、森林の生物多様性を復元することによって、生態系と調和した林業や森林管理ができるようになるのか。そして人間の生活も豊かになり、人と森との共生が実現できるのかを考えてみたい。それには、今、明らかにしておくべきことが幾つかあるように思える。
その第一は、天然の森が創られるメカニズムすなわち、多種共存の森が創られるメカニズムを明らかにすることである。森林は手をかけないで放っておいたら多様な樹種が混じり合うようになるのだろうか? もし、そうであるならば、多様な種で構成される森林ほど安定し持続すると考えられるので、生物多様性の復元は自然の摂理に沿ったことである。木材生産を目的とする人工林でもそのメカニズムを参考にして森づくりをしていくべきだろう。
本書の第T部では、東北や北海道の天然の落葉広葉樹林において種の多様性がどのようにして創られ維持されているのかを見てみたい。想像もつかないことが森の中で起きていることに驚かれることだろう。
次に第U部では、多様な樹種で構成されている森林は単一種で構成されている林より人間にどんな恵みをもたらすのかを見てみたい。例えば、洪水や渇水を防いだり、水をきれいにしてくれるのだろうか? 病虫害の大発生を抑えることができるであろうか? また、クマやシカなどの野生動物の被害を減らしてくれるのだろうか? このような機能は、自然生態系がもつ機能ということで「生態系機能」と呼ばれている。また、生態系から人間へのサービスということで「生態系サービス」とも言われている。ここでは東北大フィールドセンターのスギ人工林に広葉樹を混交させ、種多様性の増加にともなう生態系機能の回復を調べた結果を紹介する。世界に先駆けた画期的な成果をお知らせしたい。他にも目から鱗の興味深い事例がたくさん報告されている。しかし、本書では少しでも私自身が関わったり、直接現場を見たことがある事例をなるべく紹介したい。
生物の多様性には当然ながら目に見える恵みもたくさんある。信州の建具屋さんは百種以上の木々を使って建具・家具を作っている。今まで見向きもされずパルプチップにしか利用されなかった広葉樹も使い、その魅力を存分に引き出している。森の恵みをどう生かせば生活の糧に変えていけるのかを学んでみたい。また、我々の身近にさまざまな樹種が共存する森が見られるようになれば、普段の生活はどう変わるのだろうか? 例えば、食べるものや目にする風景といった、日々の生活にどのような恵みをもたらすのかをさまざまな人の目を通して見直してみたい。
第V部では、針葉樹人工林における生物多様性の回復の道筋を考えてみたい。もし、生物多様性の回復が自然のメカニズムに沿ったものであり、また、さまざまな恵みを人間に与えてくれるのであれば、今すぐにでも広葉樹を導入し、生物多様性に富んだ生態系に戻していった方が合理的だろう。しかし、今ある人工林に広葉樹を導入することは技術的に可能なのだろうか? 本書では、なるべく自然の力を利用した天然更新で多種共存の森をつくる方法を探ってみたい。これも東北大のフィールドセンターに10年前に造った試験地での観察をもとに考えてみたい。
生物多様性の回復の道筋をつける上で、最も大きな問題はゾーニング(用途による地域区分)である。戦後1000万haに急激に広がった針葉樹人工林すべてに広葉樹を導入し針広混交林化するのか? それとも標高の高い針葉樹が育たない所や奥地の保護林などに限って混交林化し、低山や道路に近い比較的人里に近い所ではあえて混交林化は行わずに針葉樹の「効率的な」生産に目標を絞るのだろうか? 木材生産と生物多様性回復の折り合いをどうつけるのか、そして、どう土地利用区分していくのかは、議論の余地が残る大きな問題だ。ここでは、生態系機能を十分に引き出せるようなゾーニングについて考えてみたい。結論から言えば、生態系機能を十分に引き出すには、むしろ、曖昧なゾーニング、すなわち、境界をはっきりさせないゾーニングの方が良いだろうということである。
最後に、人と森が共生できる社会について考えてみたい。たとえ、生物多様性の回復が森を健全にして生態系機能を高めるとしても、山村で暮らす人間にとってもなにか目に見える形でプラスにならなければ意味がない。多様性の回復から経済的な価値を生み出し、都会で勉強している子どもたちに山村から仕送りができるようになれないものだろうか? また、どうしたら山村にも若い人たちが永住できるようになれるのかを考えてみたい。
その前に、この本の序章では、我々が失ってしまった太古の森、巨木の森の姿を追ってみたい。これから取り戻そうとする天然の森の姿が見えてくるかもしれない。