藤島弘純[著]
2400円+税 四六判並製 208頁+口絵8頁 2010年3月発行 ISBN978-4-8067-1397-5
庭や田畑の邪魔者あつかいされる雑草たち……… だが実は、自然の多様性を保つうえで、重要な役割を担っている。 キツネノボタン、ツユクサなど、身近にみる雑草を35年にわたって全国で調査・採集。 その染色体から、雑草の多様性、歴史性、地域自然との関わりを探った。 「田んぼの雑草」から日本の自然の多様性が明かされる。
はじめに 第1章 田んぼの雑草、キツネノボタンの種分化 雑草と呼ばれる植物たち 栽培植物/雑草/人里植物/野草 キツネノボタンとは、どんな草? 日本の雑草の成立 なぜキツネノボタンの染色体を調べるのか? 染色体とは/キツネノボタンの染色体は色素に染まらない/ 染色体を染める新しい方法の開発/調査のスタート! 日本のキツネノボタンの核型は四つある 四つの核型の地理的分布 それぞれの核型の特徴 松山型と牟岐型の染色体を直接的に比較する/牟岐型と小樽型との関係/ 松山型と小樽型との関係/松山型と唐津型との関係/ 唐津型と小樽型との関係/松山型から唐津型への核型変化は激変的で跳躍的 日本列島でのキツネノボタンの地理的分布は、どのようにして完成したのか サイトタイプ内の遺伝的多様性/疑問の多い松山型の地理的分布/ 古瀬戸内海の誕生からキツネノボタンを考える――多湖沼化時代/ 松山型と牟岐型の分化はいつ起きたのか/ソハヤキ地域が種分化の出発点/ 日本のキツネノボタンの祖先型は松山型/牟岐型は古瀬戸内水系を迂回して広がった/ 小樽型/唐津型の誕生 column キツネノボタンの染色体研究 column 減数分裂とは column 今は夢物語なのだが…… column ジャワ島のキツネノボタン column ヤマキツネノボタンからキツネノボタンが形態的分化 第2章 屋久島の固有種、ヒメキツネノボタンの誕生 屋久島の成り立ち 幸屋火砕流 ヒメキツネノボタンとは、どんな植物? 過去の記録/屋久島での探索 ヒメキツネノボタンの染色体 ヒメキツネノボタンの核型の確認/野外での観察 ヒメキツネノボタンの種分化の道筋 キツネノボタンの屋久島への侵入/ヒメキツネノボタンの分化 column 世界遺産に登録された屋久島 第3章 ケキツネノボタンは多型的な複合種、種の起源は複雑だ ケキツネノボタンの外部形態 ケキツネノボタンとキツネノボタンの生態的な分布 ケキツネノボタンの核型の特徴 朝鮮半島のケキツネノボタンの特異な核型 唐津型染色体をもつケキツネノボタン 日本産ケキツネノボタンの核型から 遺伝学的な検証(その1)/遺伝学的な検証(その2) column ケキツネノボタンの核型は複雑 column ゲノムという概念 第4章 ツユクサは有史以前にヒトとともに日本列島へやって来た ツユクサの染色体数 ツユクサ研究のスタート 染色体数の違うツユクサの地理的分布と生態的分布 ツユクサの外見と染色体数 なぜツユクサの染色体数は、みんな偶数なのか?/人為的に雑種をつくってみる/ ツユクサは倍数体と異数体とから成る複合種 染色体の核型から分化の道筋をたどる 染色体数が同じなら核型も同じか?/ツユクサの核型は単純ではない/ 祖先型の核型はどれか?/2n=44シリーズの核型分化の方向性/ 2n=44植物の核型の多様性は、どのようにして生じた? 朝鮮半島や中国大陸のツユクサ 朝鮮半島のツユクサ/中国大陸のツユクサ/大陸産2n=44ツユクサの核型 日本固有のツユクサ 2n=46ツユクサと88ツユクサの生態的分布/そのほかのツユクサ 日本でいちばん多いツユクサ 日本海側と太平洋側とでは違う染色体の形/2n=86と2n=90ツユクサの核型 ツユクサは、稲作とともに日本へやって来た? 史前帰化植物という考え/ツユクサの分類学と染色体数との関係 栽培型ツユクサ「オオボウシバナ」は、どのようにしてつくられたか? オオボウシバナの起源伝説/染色体からオオボウシバナの起源をさぐる 第5章 マルバツユクサの故郷はアフリカのサバンナ地方 日本でのマルバツユクサの形態 地上に雄花と両性花、地下に閉鎖花/他家受粉と自家受粉、どちらが得か? 染色体数と核型 マルバツユクサの核型の多様性とその特徴 標準型の核型と変異型/核型の地理的分布/外国産マルバツユクサの核型 核型変異と減数分裂、そして種分化との関係は? 核型は多様だが、減数分裂は正常/スイバでの事例、核型の多様性 マルバツユクサの地理的分布圏拡大の戦略 遺伝学的戦略/生殖方法の多様性/マルバツユクサの早熟性 第6章 圃場整備で田んぼの生き物が変わった 日本の田んぼは多様な生き物の宝庫 圃場整備事業 田んぼの多様性の保全と復元 田んぼはイネのほかに子どもも育てた column キツネノボタンが見つからない おわりに 引用文献
私たちは、日本という暖かくて雨の多い、気候にも恵まれた、四季の変化に富んだ国土に生まれた。小川のせせらぎを聞き、身のまわりの植物たちを遊び道具にし、時にはそれらで味覚を満足させ、清水でのどをうるおし、自然の恵みのなかで育ってきた。だから、今の大人たちは、山の谷あいにはつねに清水が流れ、木や草は野や山に当たり前のように育ち、花をつけ、茂るものであるかのように思って、日本の国土で生きてきた。 しかし、日本のように水に恵まれ、草や木が茂り、森を伐採してもすぐに樹木が再生してくるような国土は、地球上にそんなに多くはない。開発先進国のなかで、国土の七〇%に森があり、野生のサルが住んでいる国は、日本だけだ。こんなにも自然に恵まれた国は、世界的にもめずらしい。 水と緑に恵まれた国土では、農地から雑草を除去することは大切な農作業の一つである。 樹木や草たちは、自然のなかで勝手気ままに生きているのではない。人間が社会をつくり、いがみ合い、助け合いながら生きているように、彼らは互いに激しく生存競争をし、時には助け合って生きている。このことに最初に気づいたのはスイスのB・ブロンケ(一八八四-一九八〇)で、彼ら夫妻は植物社会学という新しい学問分野を開拓していった。 農地に生きる雑草たちも例外ではないだろう。人の農作業や栽培植物との深い関わりのなかで、彼ら独自の生活空間をつくり上げているはずだ。 地球が誕生したのは四六億年前、その後少しずつ自らの環境を変えながら、三〇数億年前には生命を誕生させた。誕生した生命体も、地球環境の変化とともに多くの種を誕生・分化させ、あるものは消え去り、今日見るような生物界を形成した。 三〇数億年の生命進化の歴史のなかで、人類の歴史はわずか五〇〇万年、農業の歴史はたかだか一万年にすぎない。この瞬時ともいえる短い期間に、人は地球上の多くの森を伐りつくして農地に変えた。 この農地に侵入して生きる植物群を、農学的には「雑草」と呼ぶ。ここでいう雑草は、文学的(日常的)表現の雑草とは違う。 地球の表面には、地震や洪水などで自然発生的に崩壊地ができる。そうした新しい環境(荒地)には、他種との生存競争に弱い植物(荒地植物)が、生きる場を求めてやって来る。農地は人によって定期的に攪乱される人的荒地だ。荒地植物から農耕地で生きる雑草が生まれた、と考えられている。 本来的には荒地植物である雑草は、人によって農地が定期的に攪乱(起耕や草刈り)されることで、農地に生きつづけることができる。 地球上の生物は、地質年代的時間の流れのなかで進化し、子孫をつないで生きてきた。農地という新しい環境に適応して生きる雑草たちは、山野草にはない種分化の段階を、あるいは違った道筋をもっているかもしれない。これが雑草たちへの単純で、かつ観念的な疑問だ。 この疑問を、遺伝子の集積場である染色体を見ることで明らかにしてみたい。そんな思いで雑草の染色体調査をスタートした。 田んぼに生える雑草の一つ、キツネノボタンは、九州も四国も、また北海道も、植物分類学的にはみな同じキツネノボタンである。しかし、染色体を調べてみると、日本中のキツネノボタンがみんな同じ染色体の形(核型[かくがた])をしているわけではなかった。日本のキツネノボタンには、核型の違う四つのグループがあり、日本列島の田んぼを住み分けていた。 雑草の染色体を、彼らの種分化という視点で調べていくうちに、雑草は「農地」という二次的自然を形成した大切な植物群だということ、そして、私たちの先祖は、農地から雑草を排除しながらも雑草とともに生きていたこと、日本の田んぼはみな個性豊かな田んぼであったことを、雑草たちは教えてくれた。日本列島に生きた先人たちが、いかに豊かな自然をわれわれに残してくれていたかを改めて感じる日々が続いた。 だが、「農業の近代化」という名目で、この四〇年ばかりの間に行なわれた圃場[ほじょう]整備事業は、万葉の時代から日本人が綿々と守りつづけた田んぼの水環境を一変させた。日本の田んぼに適応して生きてきた多くの小動物や植物たちが住処【すみか】を失った。ある者は絶滅し、ある者は消滅寸前になった。日本人の心を癒した田園の景観は、ほとんど消滅した。田園が果たしてきた子どもへの教育力は、完全に無視された。 田んぼからメダカやドジョウが去り、子どもの歓声が消え、イネだけが青々と茂る姿には、R・カーソンの『沈黙の春』を連想してしまう。 この本は高校生や大学生などの若い人たちも読んでくれることを期待して書いた。そのため、生物の専門用語は使用しないように努めている。 第1章から第5章では、田んぼや畑で誰もがふだん目にする雑草を例にして、彼らの染色体から読み取れる種分化の多様性と歴史性とを明らかにした。そこからは、雑草の外部形態からはうかがい知ることのできない、彼らの多様性が見えてくる。 雑草の染色体を調べることは、雑草たちが日本の風土に適応してどんな生き方をしてきたのかを明らかにすることでもあった。それは同時に、日本という国土のなかで、われわれの先人たちが世界に比類のない豊かな自然をいかに保全し、それと調和しながら生きていたかを浮き彫りにすることにもなった。 第6章では、豊かな田園が圃場整備でいかに壊滅的になったかを、田んぼに生きる雑草や小動物の視点から指摘した。圃場整備を非難するためではなく、圃場整備の難点は難点として認識することで、地域自然の保全を考える際の参考にしてほしいと思ったからである。 田んぼに生きた雑草や小動物たちは生態的にはもっとも弱者であったが、同時に、身近な自然の多様性を維持するための立役者でもあった。この本で述べる具体性を通して、田んぼや畑の雑草への、さらには日常的な自然への理解と関心をさらに深めていただければと願っている。