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銃を持たされた農民たち 千振開拓団、満州そして那須の62年

【内容紹介】本書「取材を終えて」より


 私が生まれた翌年に満州事変が勃発し、成長期を15年戦争と共にした私は、軍国主義に洗脳され、14歳からは軍需工場に動員されて歩兵銃の生産に励んだ。。当時は国民のほとんどが聖戦と信じて疑わず、遅れたアジアの民衆を救うのだという誤った優越思想、裏を返せばアジア民衆への侮蔑感を持っていた。当時の言論統制、思想教育が、いかに自由のひとかけらもない軍国主義の意のままに徹底されていたかは、戦後に育った世代の人たちには、とても理解できないであろう。
 時代を遡ってみると、明治という時代に入って、日本はあらゆる面で欧米先進国に追いつき追い越すべく画策し、日清・日露の戦役で勝利をおさめて台湾・朝鮮・関東州を手に入れ、さらに内乱の渦中にあった中国に進出を企てた。そして時の中枢部が侵略を夢に見てひたすらその道を歩む時、彼らは徹底した言論の統制を敷いた。それも反対分子の取り締まりに留まらず、積極的に世論を誘導していった。その結果侵略をねじ曲げて、正義の戦い、聖戦と美化した。そして満州移民、特に初期の武装移民の派遣も聖業と位置づけ、選抜された農民の出発に当たっては首都東京で盛大な壮行会が催され、拓務大臣が“国士”と称え、万歳の歓呼に送られ、結果として侵略の先兵の役目を負わされた。そのような時代に、千振では宗団長の指導のもとで、満州の現地人と和を保ち、理想郷を建設しつつあった事実、関東軍が強制的に土地を買い上げ、その土地に地主として君臨した点に問題はあるけれど、当時の満州は少数の地主に支配され、そして土匪の略奪におびえていたこと、千振地区内では現地人が平和な家庭の生活を保証されていた事実を見る時、彼らを、国策の被害者とはいえても侵略の協力者と位置づけるのは、あまりにも酷というものであろう。
 終戦時に、一家で3〜4人の子を抱え、夫たちは根こそぎ動員で皆無となり、団に残されたものは老人、病人、婦女子のみ。そして守ってくれるはずの関東軍はすでに後方に撤退。ソ連の参戦、そして終戦、暴徒化した現地人の襲来。ソ連の参戦を察知した関東軍は、大本営の指示により本土および朝鮮を守るために、京図線以南、連京線以東に撤退、しかも撤退に際しては鉄橋を爆破していった。開拓民は完全に置き去りにされたのである。これを棄民と言わずして何であろう。
 30人の婦人が幾人もの幼な児を抱え中には老人も抱えて逃避する姿は、想像するだけでも地獄絵図である。その結果が集団自決であり、残留孤児・婦人である。当時の千振の団員数や生存状況は不明だが、千振の中の富山区の資料では、生存者38%また千振の分団、日高見開拓団史によれば、生還者26%、同じく分団の八富里開拓団では13%、この異常な数字がすべてを物語っている。
 身ひとつで、それも乞食同然の姿でかろうじて母国に引き揚げても身の置き所とてなく、戦後の混沌とした中で当時の国策である食糧増産のために、再び荒野に挑んだ……。それから数えて50年、青春の希望に燃えて未知の満州に渡ってから60年余が経った。この60年余の間、ひたすら大地に挑みたくましく生きてきて、かつては共に頑張った仲間の多くが他界していった中、幸いにして米寿または卒寿を迎える歳となり、今元気に生きる人たちに、無限の愛情を込め、心からご苦労さまと申し上げたい気持ちでいっぱいである。
 本土で唯一の戦場と化した沖縄をはじめ、広島・長崎での原爆被災、一夜にして10万人が犠牲になった東京大空襲を筆頭とする各地の空襲被災、その他限りなく一億庶民のほとんどが戦争によって、あるには生命を失い、あるいは生活を破壊され、そして人生を狂わされた。
 第二次武装移民“千振開拓団”、ここにもこういうかたちで戦争に巻き込まれた人たちがいる。この人たちの計り知れない苦労を、二度と繰り返してはいけない。戦争が終わって50年、半世紀を経て戦争を体験していない人たちのほうが多くなってしまった今、戦争で一番貧乏くじを引くのは善良な市民であること、幸福の根源はまず平和であることを訴えずにはいられない。戦争に巻き込まれ犠牲となった人たちの上に、今のわれわれの生活がある。今幸いにして生きているわれわれは、どれほど感謝したら済むのだろうか。私のこの拙い作品は、今の平和の礎となってくれた人たちへの鎮魂歌である。第二次世界大戦が終結して50年を経たが、この地球上のどこかで、絶えず争いが起きているのを見る時、自由と平和の尊さを心から訴えたいのが、私の心情である。
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