エリ・Ｈ・ラディンガー（Elli H. Radinger）

1951年、ドイツ・ヘッセン州に生まれる。
大学で法学を学んだのち弁護士を務めるが、大好きなオオカミと時間を過ごし、
書籍や記事を執筆するためにそれまでの仕事を辞める。
1991年にドイツオオカミ保護協会を設立し、『Wolf Magazin（オオカミ・マガジン）』を創刊。
1995年からイエローストーン国立公園におけるオオカミ再導入に参画。
現在はドイツにおけるオオカミ研究の第一人者として講演会やセミナーを行ない、
オオカミ、自然や生態系についての知識を広めている。

シドラ房子（Fusako Sidrer）

新潟県生まれ、スイス在住。武蔵野音楽大学卒業。ドイツ文学翻訳家、音楽家。
主な訳書に『その一言が歴史を変えた』『元ドイツ情報局員が明かす心を見透かす技術』（以上、CCCメディアハウス）、
『空の軌跡』（小学館）、『自然を楽しんで稼ぐ小さな農業』（築地書館）など多数。

はじめに  オオカミとキスして依存症になったこと

家族の意味  託されたものたちの世話をすることが大切なのはなぜ？

オオカミの原則によるリーダーシップ  みずからリーダーになる必要はない

女性の強さ  女性とオオカミの関係

古老の知恵  お年寄りを必要とするのはなぜ？

コミュニケーション技術  信頼をコーラスのように形成するには

故郷への憧憬  所属する場所が必要なのはなぜ？

旅に出るとき  親もとを離れ、いつかまた戻ってくる

親友ともいえるもの  相違はあっても完璧なチームはできる

オオカミ式成功プランニング  計画が重要なのはなぜ？

適切なタイミング  待つことが役立つのはなぜ？

人生はゲーム  遊び心を忘れない

善良なオオカミに災いが起きたら  失うことに対する不安を克服し、困難を耐え抜く

世界をほんのいっとき救う  完全な生態系の秘密

オオカミ医学  オオカミの持つ魔力は、私たちを癒してくれる

人間とオオカミ  愛と憎悪の困難な関係

ようこそオオカミたち  ドイツにおけるオオカミとの共生

おわりに  Ｗ・Ｗ・Ｗ・Ｄ


付録　オオカミ・ツアーについて──イエローストーン国立公園、ドイツ国内
訳者あとがき

  　どんなことにも最初がある。私とオオカミの特別な関係では��初めて�≠ｪ３つあった。初めてのキス、初めての野生オオカミ、初めてのドイツのオオカミ。

  　初めてのキスの相手はインボ。アメリカ内の囲い地に棲すむ、６歳の雄シンリンオオカミだ。そのころ、私は独立の弁護士としての仕事をやめて新生活に入ったところだった。犯罪事件、賃貸トラブル、離婚といった問題にしだいにストレスがたまり、熱意を持って公正を勝利に導く代わりに、裁判が苦痛でしかなくなった。優れた弁護士が必要とする距離と非情さに欠けていたのだと思う。残された人生をそのように過ごすのはいやだったので、ついに夢を実行に移すことにした。こうして大好きな執筆とオオカミへの情熱が一つに結び合わされた。

  　私は、インディアナ州にあるオオカミ研究施設ウルフパークの行動研究実習生に応募した。大学で生物学を学んだわけではないけれど、大きな情熱と楽観主義を抱いて。研究リーダーを務めるドクター・エーリヒ・クリンクハンマーから、面接で次のような説明を受けた。実習生を採用するかどうかを決めるのは、ひとえに主要な群れのリーダーだよ、と。

  　でも、オオカミに採用してもらうにはどうしたらいいの？　さいわいなことに踊ったり歌ったりといったパフォーマンスをする必要はない。それでも、テレビのオーディション番組「ドイツはスーパースターを探している」に出演したとしても、これほど興奮しなかったに違いない。実際には、囲い地オオカミとの出会いにさいして、それがいちばん誤った感情だったとしても。「冷静さを保つことだよ。オオカミは興奮を感じ取るから」と、クリンクハンマーに言われた。

  　50キロもあるたくましい毛皮の動物と向き合い、黄色い目に凝視された状態で冷静さを保つということだ。このとき、子どものころの親友でいつもそばにいてくれたジャーマン・シェパードを思い出した。基本的には、インボだって大きな犬……すごく大きな犬にすぎないのだから。オオカミとの対面に先立って、安全に対する手ほどきを受け、囲い地のオーナーを前もって法的に守る措置がとられる。オーナーの法的責任免除を定めた契約書に私は署名したが、その文面には怖気づかされた。「負傷の危険があること、重度の負傷の可能性もあることを私は理解している」というものだ。

  　こうした警告を受けたのち、２人の動物世話人とともに囲い地に足を踏み入れた。まっすぐな姿勢を保とうと努めながら深呼吸すると、優雅に駆けてくるオオカミに、私の世界の焦点を合わせる。毛皮の銀色の縞が午後の陽光を受けてきらめく。黒い鼻は私のにおい跡を深く吸い込み、耳は注意深く前方に向けられている。インボの群れのメンバーが柵のそばに立っているのが、視野の隅に見えた。私がテストに合格するかどうか、リーダーが私を受け入れるかどうか、緊張して見守っているのだろう。私も同じ心境だった。そうでないと実習に参加できないのだから。いまや、次の数秒間を克服するかどうかにかかっている。

  　目の前のシーンが頭のなかでスローモーションのようにゆっくりと流れていく。オオカミの力強い後ろ脚がほんの少し沈み、ジャンプの構えをしたかと思うと、私に向かって飛んできた。その身体の重みを受け止めたとき、もはやあとに引くことはできなかった。てのひら大の前足が私の肩にのせられ、立派な牙が私の顔から数センチのところにある。世界は止まった。そのときだ。インボのざらざらした舌が私の顔をなで始めた……何度も何度も。この��キス�≠ﾌおかげで、私はオオカミ��依存症�≠ﾉなった。

  　インボに受け入れられたのち、ウルフパークでの実習が始まった。囲い地オオカミの飼育と習性について、ありとあらゆることを学んだ。オオカミの赤ちゃんを哺乳瓶で育て、続く数カ月間にインボや群れのほかのメンバーからも、濡れた愛の証をたっぷりともらった。

  　半年後にミネソタ州の大自然のなかに移り住んだときには、すでに高度な教育を受けたあとだったので、オオカミについては何でも知っていると考えていた。ところが、そこで出会ったのは、野生のオオカミだった。

  　私の住む湖畔のログハウスは、オオカミとクマの棲息地の真ん中にある。オオカミの足跡を探すため、元日の朝にスノーブーツを履いて外に出たとき、気温はマイナス30度だった。それまでグレーの毛皮の隣人を目にしたことはなく、吠え声によって彼らの存在を知るだけだった。だが、その前の晩、小屋の前でオオカミのコーラスを聞きながら長時間オーロラに見惚れていたとき、湖上でなにやら動くものがある。はっとして夢のような現象から目をそらすと、ほのかに光る雪面を４匹のオオカミが走ってくる。やがて彼らは地平線のところで見えなくなった。動物を追っていたようだが、それが何かはわからなかった。

  　翌早朝、彼らを探すために家を出た。注意深く足跡を追って森のなかを進む。茂みのなか、切り株や石の上、低木、岩石のそばや雪におおわれた野原のへり。苦労しながら前に進む。ときどき見かける円形のへこみは、おそらくシカの休憩所なのだろう。雪の上にたっぷりと黄色のマーキングがあるのは、オオカミたちもこの場所を見つけたということだ。オオカミの道を探して一時間くらいしたころ、新鮮な血が目に留まり、すぐに若いシロオジカの死体が見つかった。膝をついて触れてみると、まだ温かい。腹は裂かれ、後ろ脚一本がないほか、胃が外にはみ出し、心臓と肝臓は跡形もない。喉と脚が鋭く噛み切られているところを見ると、シカは長く苦しまずにすんだらしい。

  　あたり一帯にオオカミの姿は見当たらない。いや、だれかに見られている、という感じをふいに抱いた。雪に膝をついた格好は、腹をすかせたオオカミが背後にいるとすると、いい体勢とはいえまい。スローモーションで立ち上がり、身体をまわす。数メートル先にいたのは、タイリクオオカミだった。電場を通過したかのように首から背中にかけての毛が逆立ち、耳をぴんととがらせ、頭を軽くかしげて私を凝視している。鼻翼が震えているのは、私のにおいを嗅ぎ取ろうとしているからなのか。だが、風は別の方向から吹いている。まだ若いオオカミは私がだれなのか、いや、何なのか、わかっていないということが見て取れた。私の呼吸が止まる。もちろん野生オオカミは人間を襲ったりしない。だが、そのことをこのオオカミは知っているだろうか。彼は腹をすかせており、苦労してしとめた獲物と彼のあいだに私がいるのだ。

  「ハロー、オオカミさん」。しわがれた声で言ったのは、ほんとうに私だったのだろうか。

  　動物は驚いてぴくっと身を震わせ、一歩後ろに跳ねた。同時に、こころもち上げていた尾を腹の内側にぴったりと寄せる。好奇心が不安に変わったのだ。それから後ろ脚を軸に半回転すると、森のなかに駆け込んだ。その姿が背後に消えた場所の木々を、私は長いあいだ興味深く見つめていた。

  　それに続く数カ月間に、ミネソタ州北部のイーリー市にあるインターナショナル・ウルフセンターの生物学者数名と、わが家の近隣に棲むオオカミたちから、野生オオカミの生活と行動についてたくさんのことを学んだ。そのほか調査研究、遠隔測定法、モニタリングについても。

  　1995年、イエローストーン国立公園にカナダのシンリンオオカミが導入されたとき、私の��オオカミ�＄l生は新しい段階に入った。イエローストーン・ウルフプロジェクトにボランティアで参加し、野外調査では生物学者の助手を務めた。このときの主な活動場所は、国立公園北部の広い谷で、標高2500メートルに位置するラマー・ヴァレー。ここに棲む複数のオオカミ家族を観察し、それを生物学者に報告した。

  　すでに20年以上前になるが、このとき以来、オオカミとの出会いを一万回以上体験した。彼らとの距離がわずか数メートルということも何度かあったが、脅威や不安を感じたことはない。毎日のように彼らに出会えるのは私にとってすばらしい特権で、そのために一年に何度も一万キロの距離を飛行して大西洋を渡った。というのも、ドイツの公式報告では、国内にオオカミはいないといわれていたからだ。人目を避けて暮らす野生オオカミがドイツで確認されたのは2000年だが、目にすることがあるとは期待していなかった。

  　ドイツ国内を自由に移動するオオカミに初めて出会ったのは、それから10年後だった。

  　朗読会のためにライプツィヒに行き、翌早朝にＩＣＥ（高速鉄道）でフランクフルトに向かった。同行者がカプチーノをテーブルに置き、私が新聞を手に取ろうとしたとき、窓外の野原に何やら茶色いものを発見した。長年にわたって自然の動物たちと過ごしていると、オオカミが頭のなかに抱く獲物または風景の視覚的特徴を思い起こす能力が発達するものだ。無意識に目の前の光景を見ていた私は、具体的なことはまだわからないながらも、何か変だと感じた。その感覚はふいに起きた。あれは何だろう？　キツネにしては脚が長すぎるし、長い尻尾があるからノロジカではない。列車を止めなければ……と思ったが、列車は猛スピードで走り続ける。私は窓ガラスに顔をくっつけるようにしてテーブルに身を乗り出したので、カプチーノが新聞にこぼれた。オオカミだ！　静かに立ち、森のへりにある何かをじっと見ている。だが、列車のスピードでその光景はかき消された。

  　ドイツで野生オオカミを目にしたのは、このときが最初でこれまでのところ最後でもある。

  　野生オオカミの観察には終わりというものがない。交尾にいあわせると、数カ月後にその産物の赤ちゃんが短い脚で丘の上を転げまわり、ママの��ミルクバー�≠ﾌいちばんいい場所を争うようすが観察できる。おずおずと狩りに挑戦して初めて獲物をしとめたとき（やった、小さなネズミ！）いっしょに喜び、怪我をすれば苦痛を分かち、死を悲しむ。彼らが遊んだりじゃれ合ったりするのを見て笑い、求愛するようすを眺め、やがて輪が閉じてまた一から始まる。

  　私はみずから認める��オオカミ依存症�≠ﾅ、彼らのいる場所にいないと離脱症状を感じる。オオカミの棲息地にいるときは、けっして満足するほど得ることのない��麻薬�≠�探す。一生に一度か二度オオカミを目にすれば十分という人たちは多いが、私はそうではない。もっと見たい。だから次の機会を待っている。マイナス40度だろうと灼熱の太陽のもとでアブがうようよいようとかまわない。防寒用ソックスを履いて使い捨てカイロを手袋に入れるか、あるいは日焼け止めクリームと虫よけクリームを塗って出かけ、どんな天気であろうと何時間でも平気で耐え抜く。私が見逃したくないことを、オオカミたちがするだろうとわかっているから。何もしていないとすれば、次に何をするのかを知りたい。

  　一匹もいないときは、やってくるまで待つ。ついに彼らの姿が見えたら、これから特別なことが起きる、と感じる。

  　狩り、交尾、子育てといった彼らの生の営みにいあわせることができたのは、すごく幸運だったと思う。彼らの行動は人間のそれとよく似ていることがはっきりした。面倒見のいい家族、威厳があって公正なリーダー、同情心に篤いヘルパー、血気盛んなティーン、たわいのないおどけもの……。

  　観察を通して、オオカミは優れた教師であることもわかった。そのいくつかは、私たちの生活に取り入れてもいいかもしれない。

  　オオカミの群れは私の一部となり、彼らの複雑な社会行動を長年にわたって研究したことで、私は変化した。道徳、責任、愛といった概念は、新しい意味を帯びた。オオカミは私の教師であり、霊感の源でもある。世界を別の目──つまり彼らの目で見ることを、日々私に教えてくれる。

  　太古の昔、人類が狩猟採集の社会スキルを学んだとされるほど、高度な社会性を持つ野生オオカミ。
  　彼らの生活を解き明かすべく、マイナス30℃という極寒の屋外で数時間立ったまま、あるいは標高の高い山脈では万全の紫外線対策を施して、20年以上にわたりオオカミの観察を続けてきた著者が、オオカミの真の生態を記しました。

  　人間や家畜を襲うというイメージを持たれるオオカミですが、本書によれば、ヨーロッパで過去50年間にオオカミに殺された人は9人。「オオカミに殺されるより、交通事故で死ぬ確立のほうがはるかに高い」と著者は言います。
  　野生オオカミの本当の姿を多くの人に知ってもらい、長きにわたる偏見を払拭することが、オオカミとの共存につながると考える著者は、人々とオオカミが出会う機会を設けるためにこの本を執筆しました。

  　日本国内では明治時代に絶滅し、導入の是非が長年議論されているオオカミ。本書に示された最新のオオカミ研究の成果は野生オオカミが生態系や他の生物にもたらす影響を考える一助となり、彼らの生きざまは、人間の家族のありかた、社会のあるべき姿をも問いかけてきます。