| ヘレン・スケールズ[著] 林裕美子[訳] 2,700円+税 四六判上製 368頁+カラー口絵15頁 2016年11月刊行 ISBN978-4-8067-1527-6 数千年にわたって貝は、 宝飾品、貨幣、権力と戦争、食材など、 さまざまなことに利用されてきた。 人間の命が貝殻と交換され、 幻覚を起こす薬物としても使われ、 医学や工学の発展のきっかけもつくる。 気鋭の海洋生物学者が、 古代から現代までの貝と人間とのかかわり、 軟体動物の生物史、 そして今、海の世界で起こっていることを鮮やかに描き出す。 |
ヘレン・スケールズ(Helen Scales)
イギリス生まれ。海洋生物学者。
ケンブリッジを拠点に活動している。
学位論文は、巨大な絶滅危惧種の魚をボルネオで探すこと。
カリフォルニアでサメに標識をつけたこともあり、
アンダマン海にある100の島々のまわりでとれる海の生き物のリストをつくるのに1年を費やしたこともある。
BBCラジオにたびたび出演し、サーフィンの科学、サメの頭脳の複雑さなどをテーマに、ドキュメンタリー番組を放送している。
王立地理学会の会員。ケンブリッジ大学で教鞭をとっている。
林裕美子(はやし・ゆみこ)
兵庫県生まれ。信州大学理学部生物学科卒業。同大学院理学専攻科修士課程修了。
おもに生命科学分野の英日・日英の技術翻訳を得意とする、HAYASHI英語サポート事務所を運営。
監訳書に『ダム湖の陸水学』(生物研究社)、『水の革命』(築地書館)、訳書に『砂──文明と自然』(築地書館)、『日本の木と伝統木工芸』(海青社)。
大学で学んだ生物学・生態学の知識を生かすために、さまざまな団体に所属して環境保全活動にも携わる。
宮崎野生動物研究会(アカウミガメ保護)、ひむかの砂浜復元ネットワーク(砂浜保全)、てるはの森の会(照葉樹林の保全)、信州ツキノワグマ研究会など。
日本の読者のみなさんへ
プロローグ
Chapter1 誰が貝殻をつくるのか?
軟体動物は何種類いるのか
熱水噴出孔にいる軟体動物
軟体動物とはどんな生き物か
ことの始まり──バージェス頁岩(けつがん)
軟体動物の祖先?──ウィワクシア
軟体動物が先か、貝殻が先か
防弾チョッキに穴をあける歯──削り取り、噛み砕き、つき刺し、銛(もり)を打つ
サーフィンを覚えた巻貝──足
1000に1つの殻の使い方──外套膜(がいとうまく)
Chapter2 貝殻を読み解く──形・模様・巻き
イポーの丘で見つかった巻貝
螺旋の科学
貝殻をつくる四つの原則
貝殻の仮想博物館──考えられる限りの貝殻の形
なぜ形が重要なのか
右巻きと左巻き
自然界のお遊び──模様
マインハルトのシミュレーション・モデル
理論を裏づける証拠
軟体動物の日記を解読する
コウイカの模様の解明北極地方の落葉樹林
Chapter3 貝殻と交易──性と死と宝石
貝殻の持つ神秘の力
最古の宝飾品
不平等の兆候
世界中で使われたスポンディルスの貝殻
旅するタカラガイ──貨幣
奴隷とタカラガイ
ヤシ油と貝殻貨幣
Chapter4 貝を食べる
セネガルのマングローブの森で
イギリス人と貝
好ましい海産物?
事件の全容──貝毒による被害の原因
誰がシャコガイを食べたのか
カキの森の守護者──ガンビア
トライ女性カキ漁業者協会
2日にわたるカキ祭り
Chapter5 貝の故郷・貝殻の家
失われたカキ漁
カキと生物群集
カキ漁の復活をめざして
カキの冒険
生育の足場になるカキ殻
共同体をつくる炎貝
ヤドカリ──殻をつくるのをやめたカニ
順番待ちするオカヤドカリ
ヤドカリに居候する生き物たち
Chapter6 貝の物語を紡ぐ──貝の足糸で織った布
海の絹でつくられた伝説の布
ピンナの足糸
シシリアタイラギと海の絹
海の絹の神話と現実
海の絹の産地──ターラントとサルディニア
海の絹を織る姉妹
海の絹の殿堂──足糸(そくし)
極秘の足糸の採取方法
シシリアタイラギと共生する生き物
Chapter7 アオイガイの飛翔
殻をつくるタコ
オウムガイの殻
アンモナイトが祖先?
蛇石(へびいし)と雷石(かみなりいし)
肥料になったコプロライト(糞石)
アンモナイトかアンモノイドか
白亜紀末の大量絶滅とアンモナイト
19世紀にアオイガイを調べた女性──お針子から科学者へ
自分で殻をつくるアオイガイ
アオイガイの奇妙な性行動
ジェット噴射
Chapter8 新種の貝を求めて──科学的探検の幕あけ
オウムガイでつくられた器
海外遠征した博物学の先駆者たち
科学的探検の幕あけ
新種の貝を求めて太平洋を横断──ヒュー・カミングの探検
2度目の探検──中南米の太平洋岸
サンゴ三角海域へ──フィリピン諸島
商取引されるオウムガイ
カミングの標本と有閑階級
ロンドン自然史博物館に収蔵されたカミングの貝コレクション
貝の図鑑──『アイコニカ』と『シーソーラス』
Chapter9 魚を狩る巻貝と新薬開発
イモガイの秘密をあばく
複合毒素の複雑な作用
貝毒から薬をつくる
生物接着剤になったイガイの足糸
二枚貝がつくり出す液状化現象
割れない殻の秘密──真珠層
巻貝の鉄の鱗
危機に瀕するイモガイ
Chapter10 海の蝶がたてる波紋──気候変動と海の酸性化
海の蝶を訪ねて──グラン・カナリア島
海の蝶の不思議な生態
酸性度の問題
石灰化生物たちの困惑
軟体動物が受ける酸性化の影響
死滅への道を歩む海の蝶
海の蝶の糞の役割
生態系を調べる手段
酸性化の時間
海の酸性化と科学者
人間の活動と海
エピローグ
貝の蒐集について
用語解説
謝辞
訳者あとがき
本文に登場する書籍(原著名)の一覧
参考文献
索引
地図
大西洋
イギリス
イタリア
太平洋
『Spirals in Time』の日本語版が出版されることになり、私はとても喜んでいます。英語以外の言語に初めて翻訳されるので、日本のみなさんが国際版の最初の読者になります。
軟体動物という不思議な生き物は、森の木のてっぺんから波打ち際はもちろん、未知の深い海の底まで、地球上のあらゆる場所に生息しています。私は、貝殻と、それをつくり上げる軟体動物の世界を広く紹介したいという熱い思いから本書を執筆しました。古代から人が自然とのあいだに築き上げてきた密接な関係にも思いをめぐらせてもらえるかもしれないと思っています。
貝は、昔から世界各地の文化に深く根を下ろしてきました。文明の初期の装飾品に貝殻が使われ、最古の貨幣としても利用され、海を越えて宝物や交易品として扱われてきたのです。しかし、そうした古くからの価値観はいまや薄れつつあります。本書によって、貝からつくられた美しい貴重な品々に、少しでも興味を持っていただけたら幸いです。
今ほど、自然界について知ることや、かかわりを持つことが求められている時代はないでしょう。貝殻や軟体動物を見れば、現代の人間がさまざまな方法で自然を傷つけていることがわかります。乱獲、海洋汚染、気候変動、生息地破壊が原因で見かけなくなったものもいます。いまだに新種が見つかる一方で、絶滅していく種類も多いのです。
私たちのまわりの自然界は常に変化していますが、それに気づく人はほとんどいません。多くの人は街に住んで自然とは無縁の生活をしているので、人が自然にたよって生きていることを忘れてしまいがちです。しかし貝殻は、人と自然をうまくつなぎなおしてくれます。貝殻をつくる動物が進化しては消えていった太古の時代を想像する手助けをしてくれることもあります。カキ、イガイ、アカガイ、ハマグリを食べれば、それは私たちの遠い祖先と同じものを食べたことになり、美しい貝の螺旋(らせん)や模様を読み解くことができれば、それをつくった小さな動物が残したメッセージを知ることにもなるのです。
そしてなにより、自然が美しいものであることを貝殻は私たちに教えてくれます。貝や自然界の多様性についてほんの少し知識が増えるだけで、私たちの生活は豊かになり、日々のストレスから解放されるでしょう。
私が本書で言いたかったのは、もう少し気をつけて自然を見つめてほしい、誰にでもわかる小さなことがらに気づいてほしい、見る目を持てば誰にでもそれができる、ということなのです。
本書を手に取ってくれて、ありがとう。ここで紹介する話を楽しんでいただけることを願っています。
ヘレン・スケールズ
著者のヘレン・スケールズ(Helen Scales)と同じように、私も子どものころから貝殻が好きだった。大人になって海のない長野県に長く住んだあと、太平洋に面した砂浜が広がる宮崎県に移り住んでから、また貝殻を集めるようになった。最初は割れていないものをいくつか拾ってきて眺めて楽しむだけだったが、だんだんと置き場に困るほど貝殻のコレクションが増えていった。そこで図鑑を手に入れた。名前を調べれば記録しておくことができ、いちばん良いものを残して、あとはほしい人にあげればよいと考えたのだ。採集日と採集場所も書きこんだ一覧表をつくってみたら、貝の種類は300を超えていた。
集めた貝殻を、友達へのプレゼントのためや、自分の楽しみのためだけにしまっておくのはもったいないので、どのように世に出そうかと考え始めていたとき、築地書館の橋本ひとみさんから電子メールが届いた。昨年(2015年)イギリスで出版された"Spirals in Time" という貝の本を翻訳出版することになって翻訳者を探しているというのだ。私が砂浜や貝殻に興味を持っていることを知ったうえで連絡をくれたのだろう。お忙しいでしょうか、という橋本さんの遠慮がちな文面を見ながら、貝との運命的なつながりを感じて引き受けることにした。浜で拾った貝殻の名前を調べていたことが、本書に登場するさまざまな貝を頭の中で思い描くのにも、英語名から和名を探し出すのにも、大いに役立った。
本書では、軟体動物についての研究業績や保全活動が次々と紹介される。貝と聞くと、食べておいしいかどうか、あるいは貝殻の色や形に目がいきがちだが、貝殻の役割や軟体動物の生きざまなど、もっと広い世界へいざなってくれる。
プロローグではスケールズ自身が海の世界に引きこまれていく過程が描かれる。そして第1章では、たくさんいる海の生き物のうち、軟体動物という動物群の特徴が解説される。二枚貝や巻貝だけでなく、イカやタコ、ウミウシやクリオネなども軟体動物に含まれる。貝殻をつくるという習性をうまく活用したものもいれば、つくるのをやめる方向に進化したものもいる。第2章は貝殻の形についての話題がほとんどを占める。貝殻がなぜあのように優美な形になるのかと不思議に思うのは私だけではないようだ。形の研究をもとに貝殻の形を表示させるコンピュータを自作したあげく、貝殻の仮想博物館までつくってしまった人もいる。
第3章では貝殻の利用の歴史が語られる。タカラガイが貨幣として使われていたことはよく知られている。しかし、世界規模の取引に使われていたことや、貨幣価値が暴落する前にインフレをきたしたことはあまり知られていないかもしれない。第4章では、貝を食用にしてきた世界の事例があげられる。カキを大量に食べるのは日本人だけではない。欧米でもアフリカでも、人はカキを好むらしい。生息域の保全や持続可能な採集方法を徹底させた結果、漁獲高を上げることに成功して、貝も人も安心して生活できるようになった事例もある。
そうした貝が死ぬと、殻は無機物の仲間入りをして、ほかの貝が生息する足場となる。第5章では、殻で海の中に大きな構造物をつくる貝や、貝殻をリフォームしながら代々利用するオカヤドカリの話が紹介される。大きな空っぽの貝殻が1つ見つかると、それを取得したヤドカリの使い古しの殻をもらおうとして、少し小さなヤドカリが順番待ちの列をつくる場面は想像するだけでも楽しい。人は貝の身を食べ、殻も利用するが、じつはそれだけではない。第6章では、貝がつくる金色の繊維で織った布の謎に迫る。実在する布や言葉の語源をたどっていくと、紀元前のアリストテレスの時代にまで探索がさかのぼる。
第7章では、殻の形がよく似たアンモナイトとアオイガイについて、学者が大まじめに類縁関係を議論した経緯が語られる。19世紀の初めに一人の女性が、その学者たちの鼻をあかすようなアオイガイの研究をして事態が収拾する。第8章でも、学者ではない貝の蒐集家が、貝類学を塗りかえるような世界最大のコレクションを残した経緯が紹介される。たかが貝殻なのだが、ささやかなコレクションを持つ私には、そのロマンに満ちた人生がちょっぴりうらやましい。
第9章には、最近耳にするアンボイナという殺人貝が登場する。毒の研究は、貝毒に限らず人を魅了する研究テーマだが、毒素成分の解明だけで終わらず、神経科学の発展に寄与することになった。また、磯の岩に藻のようなヒゲでしっかり殻を固定するイガイ類の研究も、新薬や生物接着剤の開発につながった。
そして第10章では、海の酸性化がもたらす問題点が指摘される。海水に溶けこむ二酸化炭素の量が増えると、本当に海水は酸性化して貝殻は溶けてしまうのだろうか。海は広いので、現実に酸性化が問題になってくるのは50年、100年先のことかもしれないが、軟体動物が進化してきた数億年という年月から見ると、変化の速度が速すぎるのではないかと著者は考えている。陸上の限られた空間に居住する人間にとって海の出来事は遠い国の話のようだが、誰にも予測できないかたちで影響が忍び寄ってくるのかもしれない。
スケールズとは面識がなかったのだが、言いまわしなど、どうしても著者に直接尋ねたい箇所があった。インターネットで調べてみると、本書を紹介しているホームページにメールアドレスが書かれていたので、試しに連絡をとってみると、すぐに返事をくれて、質問を送ることになった。10項目ほどだったが、どれもていねいに説明してくれた。翻訳のおもしろいところは、西洋文化にもとづいて書かれた原著を、日本の読者にわかるような形で表現するところにある。たとえば、第8章に出てくる多様な生き物が生息するサンゴ三角海域については、古い地図なら「ここにたくさんいるぞ」と矢印がしてあるだろうというくだりがある。日本人にはなじみのない古い地図の話なので、少しでもわかりやすいように、古い地図の名前はわからないかと私が何度も問い合わせたので、スケールズも困ったことだろう。特定の古地図を指しているわけではないことをていねいに説明してくれて、ネット上に"Jishin no ben"という日本の地図が紹介されていて、そのようなイメージだと教えてくれた。調べてみたところ、龍の絵が描かれた「地震の弁」という地図は、19世紀に日本で起きた地震を説明するものだったので、残念ながら訳文ではその地図には触れないことにした。
日本は海に囲まれた国なので、海産物としてハマグリやカキなどの二枚貝はなじみのあるものだが、軟体動物全般についての研究活動や保全活動、あるいは人の生活にもたらす食用以外の恩恵を一般の人に向けて発信している人は多くはない。海には、まだまだ人が知らないことがたくさんあるということを、少しでも多くの日本の読者に知ってもらえれば幸いである。
2016年8月25日
林 裕美子