有馬純達[著]2000円+税 四六判 240頁 ハードカバー 2005年12月発行 ISBN4-8067-1322-8
1902年、政論を好み、文芸を愛する若き日本人たちが、西部開拓の拠点シアトルで、日本語の新聞を創刊した。排日移民法など、過酷なアジア人差別のなか、米国西北部の日系人コミュニティーのあいだで高い購読率を誇った硬派の新聞、『北米時事』である。新聞が唯一の情報源だった「新聞黄金時代」に、日系人社会を支えたサムライ・ジャーナリストたちを、『北米時事』社長兼主筆を父に持つ著者が、静かな筆致で描く。
序章第一章 二十世紀初頭=『北米時事』と在留邦人草創期の『北米時事』急増する日本人移民第二章「桜岳随筆」=有馬純清が米国の排日を糾弾日本の外交官も「排日」策に加担「排日」の根っこには人種偏見我らにとって「排日」の教訓とはより大きな「迫害」は日本国内に第三章 純清の生い立ち=薩摩のサムライの血 養父は西南の役で戦没曽祖父は殉教者として割腹スピノザ研究で米国の博士号第四章 『北米時事』安定期=長男・純義の時代ある日の『北米時事』の紙面純義を支えた友人たち 純義が「第二世問題管見」の論考若くして日本人会長に第五章 帰国=純清は鹿児島、純義は東京へ純清の指宿町長時代純義一家はシアトルから順次、撤収開戦直前、純義が“最終便”で帰国第六章 日米開戦=三男・純雄一家の受難純雄が連邦捜査局(FBI)に逮捕される一家はアイダホ州の砂漠の中の収容所に創刊四十年『北米時事』の幕引き第七章 戦時下の日本=純義宅は灰燼に時勢憂慮の日々・身近な若者たちも戦死一九四五年五月二十五日鹿児島・指宿にも連日の空襲、純清は疎開第八章 戦争の終結=有馬一族それぞれの戦後 純清、疎開先の岡山で客死純義が指宿町長選に出馬純雄一家の釈放・「編集長」から「クリーニング業」に純義は再び「花園一郎」として寄稿純義のささやかな春・やがて急死純雄と甥が四十年ぶりの対話☆ ☆ ☆純義妻・環が「半生記」を書きのこす付=有馬環の手記「わたしの生い立ち」 関連年表主な参考文献・資料あとがき