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炭坑美人 闇を灯す女たち

著者……田嶋雅已 →→著者略歴と主要著書
2500円 ●5刷 A5判 254頁 2000年10月発行

人間としての豊かさ、輝きに満ちた笑顔……苛酷な労働、極限の生活を乗り越えてきたからこその言葉と顔がある。
「何でん来い。負けんとよ。」
「くよくよ言うてどげしますか。アンタ! おもしろおかしゅういかな!」
46人の元炭坑婦のおばあちゃんたちが物語る自らの人生は、今のこの時代を生き抜く勇気を与えてくれるだろう。

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【主要目次】
能美シズコ「だいたい婆さん、あんた女ごな? 処女時代あったとな?」ち、人が聞くよ。男まさりにもなるくさ! 今んごと保険もなからな保護もない。そげな時代にお嬢さんのごとして、どうして家庭がたっていくですな?
原田ツマ戦争に負けてアメリカの時代になって、もうこれで明日から坑内に下がらんでいいと思うてワシは喜んだばい。女ごは坑内なん下がっちゃぁならん!「1銭でも余計に炭を出さな!」ちて、欲が出るきね。ほんに罪をつくるばい。
西嶋ヒサエガス爆発で死んなった人は、どげんもこげんもない。広島と長崎に落ちた原子爆弾に遭うたようにな、ジリジリジリジリ焼けちょると。死体を人車に乗せていくつも上げよんなったよ。むごいもんたい。
久保ウメノ八つの時から坑内だけでも三十年。炭坑の仕事ちゅうたら好きぐせ好いたごとしてきよりました。閉山後は失対やら労働運動やらもしよりましたが、そげなんは忘れても炭坑の味だけはどげなことがあっても忘れきらん。
秋山サカエ18歳の時、ガスがあるところに下がりよったよ。もう幽霊のごとある。気がついたら覚えちょったが、ガスで頭をやられてみーんな取られてしもーた。
井出コズエ呑助の爺ちゃんには苦労した。酒を飲んではゲッテンを出す。お膳をひっくりかやしてはビンを投ぐるヤカンを投ぐるで手に負えん。「さぁーケンカ!」ちゅうたら飛んで行きよった。爺ちゃんがコロッと死んだ時は、ほんとヤレヤレと思うたと。
永山アヤコ18歳の冬に魚食いたさばっかりに炭坑に出てきてからというもの貧乏をしてきよったが、死んであの世に財産をかろーていけるわけでなし、我が自由がきいて食うだけ食えりゃぁ、私はこれが一番と思うちょる。
広畑フミコ炭坑の女ごはいつも「負けてたまるか!!」ち思うて、働いてきよったき、気が荒いとたい。炭がいっぱい入った函を上ぐるのにも一人でやるとやき、ようあげな力が出よったと思うよ。女ごの力は強いばい! 自分ながら恐ろしいごとある。
大津ミツ今の若い人に、あげな難儀したことを聞かせたっちゃぁ嘘んごと考えちょるよ。昔は坑内下がって働いて、上がってご飯を食べて寝て起きたらまた仕事に行かなならん。もう働くばっかしてい。
佐野トシノ娘時代は、どうかとたらひょうくらかされよったよ。先ヤマさんがプツンとカンテラの火を消しなさる。そんな時は、「もしひっくり返しなすったらどげなるとやろーか?」ち、思うたら、恐ろしゅうして飛んで家に帰りよったよ。
内村スミノ「親のシリについて働く娘が一番ようござす」ちて、お父さんはいつも笑って言いよんなった。40の半ばを越えて鹿児島の田舎を出たなり一度も帰らんずく、とうとう炭坑の土になってしもーたお父さんの姿を思い出すにつけ、今でも涙が出るとです。
匿名私はほんと、小ヤマのモグラですばい。カンテラの小さな明かりを頼りに地の底を這いずり回って、ふと気がついたらとうに40の坂を越えちょりました。私の一生に人に聞かせるげないい話はございまっせん。
二川テルコいったん坑内に下がればもう無我夢中。「男なんかに負けてたまるか!」ちゅう気持ちで働いてきよったよ。先ヤマさんから「今日はやったなぁ。坑内一やったぞ!」ち、言われれば、仕事はきついでも嬉しいとたい。
数山ウメノ神戸から川崎に帰ってきた時はもう15になっちょりました。親兄弟もおらん一人ぼっちの私は、嫁さんにならな行き場がないき、「こん人なら人物じゃ。一代ついていかるる」と思うた人の前で、「嫁さんにもろーてーっ!」ち、叫んだとです。
岡本リツ炭坑が閉山になっても、坑主なん腹一杯儲けてきちょるけど、ウチたちは腹一杯苦労してきちょりますき、もう人間に生まれてくるごたぁないね。「どうぞ最後だけは楽に死なせてください」ち、そう思うだけですばい。
岡田サメ「函の頭数に来ておくれ」ち、姉さんに言われて、ウチは函取り専門で坑内に下がったと。スラ曳きなん見るごとは見たけど、そげんとうはしたこともない。採炭の後向きなん、ウチんげなこーまい体のもんがでくるげな仕事やないと。
匿名坑内はそりゃー穴ん中で真っ暗やき、恐ろしいごとあるよ。けどウチはどげんない。いったん坑内に下がればもう夢中たい。「男でん何でん来い!」ち、げなふうで、ケンカするげな女ごやき。昔は女ごもそげんなからな子どもも太りきらんとよ。
石丸タマエそりゃー炭坑の人はケンカもすれば博打もする。飲む・打つ・買うの三拍子で、銭の使い方も激しかっちょろうばってん、みんなで助け合うて生活してきよったよ。金がなからな借金でんして貸してくれよった。炭坑ほど生活のしやすいとこはないですばい。
中村シズなし、こげん働かな生活していかれんとやろーか? 炭坑の仕事をして、百姓の仕事をする。こーまい時からがむしゃらに使うてきた体じゃぁ。今はいよいよ体が動かん。五体がくずれてしもーたんたい。
南ヤエノウチは地のもんで旅をしちょらんき、炭坑ちゅうても平々凡々の人生たい。そいき、働くとだけは働いた。坑内仕事でん土方仕事でん、いっちょん苦にならんやったが、満州からの帰りの道中だけはさすがにしびれたばい。
松岡ハツエ子どもたちは、「母ちゃんは働くよりほか何ひとつしきらん」ちて、言いよるが、ウチたちは部落差別のために貧乏してきよったき、借金を返すためには人の倍働かな。人間生きちょる間はコツコツ働かなつまらん。
柿本リツウチたちの時代は五つ六つのこーまい時から子どもをかろうて家の加勢をしてきよったが、太りあがりゃぁ婿さんぶりが悪うて苦労した。ウチの苦労話は三日三晩話たっちゃぁしまえんばい。
鷹木ヒサヱ12歳の時に姉に言われて守りに出て、76歳で失対をやめるまで、働きづめの人生やった。私の知ってる範囲では、とにかく大正から昭和に変わるこの15年間が、女ごが一番苦労した時代やないと?
今村タツヨもう誰も知らんよ。ウチたちがこげん苦しんで働いてきたとは。朝になったらまた坑内に下がらなならんと思うてくさ、オシッコをしたいともこらえて布団の中で泣きよった。もう私んごと働いたもんはおるまい。
津村セツ今になって思いますばい。昔の女ごはようやってきた。自分を見ながら「偉かったなぁ」と、思いよります。自分の手と足だけが頼りですき、相当使うたですよ。人間の五体ちゅうもんは使えば、使わるるもんですたい。
匿名坑内はもう見ただけで嫌やね。真っ赤に燃えた火と風が、坑内を一瞬のうちに駆け抜けたかと思えば後はわからん。頭も顔もきれいに焼けて、体も半ペラ焼けてしもーて、皮がワカメんごと垂れ下がっちょったと。
井上マサヨ坑内に下がりだした頃は、みなさんはお父さんやらお兄さんやらの後向きでかぼうていただいているのに、私だけがこげな地の底で虫ケラのごと働いて本当に情けないと思うて泣きました。汗と涙と炭塵で、とても女ごの姿ではございません。
橋本タメヨ都会の人は自分さえよければ人のことはどうでもいいごとある人が多いいき、好かんですたい。この町も閉山でこげん寂れてしもうたけんど、やっぱー昔の炭鉱町がいいですたい。今は偉か人とか、大学を出よったげな人とかが悪いことをする。ほんとおかしいごとある。
桑名ハツエスラも曳いたが立ち担いがきつくてね、六尺を肩に乗せるとでもヒィヒィ言うたよ。「もう一度坑内で働きたい」ちゃぁ、本当に働いたことのねぇもんじゃろう。苦労ちゅうもんは一代のうちに何度あるかわからんたい。
皿海トシコ今、昔の炭住を壊して団地を作りよりますが、お互い戸を閉めて顔を見ることもないちゅうことですたい。昔は貧乏をしよりましたが、何をするでん近所のもんと顔をあわせてやってきましたき「家はボロでも昔の家がいいねぇ」ち、みんな未だに言いますたい。
倉谷タマキ一度、ある曲片にガスが入ったことがありよった。そん時「ガスには酸が毒消しになるげな」ちて、アンタ! ミカンを二つに割って、それを口に押さえて坑内に下がりよったよ。今思うたら、もう話にならんぐらい遅れちょった時代ですたい。
梶原スエメ昔の炭坑は大人も子どもも隣近所のもんは家族と一緒ですき、みんな助けおうて生活してきよりました。今は人と人の触れ合いも、横と横との繋がりもなくなってしもーて、自分は自分ちゅう。それも気楽でいいけんど、やっぱりちょっと淋しいですたい。
小野ユスヨ昔のこつ考えりゃぁナシ、ウチは今でも遊ぶげな気持ちにはなれん。洗濯とか炊事とかちゅう所帯は、いっちょん女ごの仕事のうちに入っちょらんじゃったきナシ。一生懸命坑内に下がって働いた時の気持ちが今でも忘れられんと。
後藤アキヨ坑内には何十年ちて働いてきよったが、「きつい!」とかはいっちょん思わんやった。そん時の時代時代で、遡源して働かな食べられんちゅうことがあるとやろう。昭和の陛下さんは亡くなりになったけんど、ウチはこの山ん中でまだしゃべくりよる。
品川アサオ人間正直で真面目にやれば、いつかどこかで誰かが助けてくれる。私はこの年になるまで、悪い人がこの世におるちゅうことを思うたことがない。それで人生終わっていけばいいとやないと? 字を知らんでほんとよかったかもしれん。
岩本シゲノ坑内はそりゃーおもしれーよ。昔は男も女ごもみーんな裸、スッポンポン。そいでシモの話ばっかしよるきなぁ。もう笑うげなことばっかしたい。あんまり笑いすぎてこげんシワが増えてしもーたんたい。
花崎キヌヨウチは主人を亡くしてから50年近く、ずーっと後家を通してきよったよ。後家でいたからこそ、多少なりとも金が残る。男を持ったっちゃぁどげすると? 男は飲む・打つ・買うの三道楽で、なんぼ女ごが働いたっちゃぁ金は残らん。
菊地ウル愛媛の百姓出じゃき、坑内はとにかく恐ろしいとで腹一杯たい。殺げん肝の細いもんに坑内で死んだ人の霊が取り憑くらしい。私は二回ありますたい。体はグツグツ震えるばっかしで、ご飯もなかなか食べきらん。昔の人は苦労しちょるよ。
滝本ユキコ沢庵しか入っちょらん弁当箱を見ては、「今日も割れ木が入っちょる」ちて、60歳を過ぎてから日本に連れてこられた朝鮮の爺ちゃんの姿を思い出すと、今でも涙が出るんたい。
匿名私が足を切断したのは、坑内に下がりたってまだ三日目か四日目のことですたい。昔坑内に下がった人は傷痕が思い出になるぐらいのもんで、一生懸命働いたっちゃぁその日暮らしが精一杯。財産が残ったちゅう話なんかは聞いたこともないですばい。
新谷トモエあの時代は朝鮮からたくさんボッシュウしてくるぐらい人手の足らん時代やったですき、女ごでも坑内に下がって石炭を掘るちゅうことは、一にも二にもお国のため! 自分たちが頑張らねば! ちゅう気持ちやったとでしょう。
日高エミコ戦争で男がみーんなおらんごとなってしもーて、男の気持ちで仕事をしてきよったが、今から思えばゾーンとするですたい。なんぼ経験があったっちゃぁ女ごばかりで炭を掘るちゅうことは、やっぱーやおないですばい。
森セツ戦時中はあたりをぐるり見回してもなんひとつ食べるもんがないとです。そん時ですたい。「坑内に下がれば弁当米が出る」ちゅう話を聞いたとです。もうお金やない、子どもの腹を干さんがために、ただただ一合そこそこの弁当米欲しさに坑内に下がったとです。
匿名戦争中の炭鉱はよう圧制しよったよ。一度その炭鉱があんまり圧制するちゅうて芦屋から憲兵が来よったが、その憲兵がまた圧制するとやき、もう話にならん。日本は戦争に負けて本当によかったよ。
保坂フミ子坑外の土方の仕事をしよったっちゃぁ女手一つで子どもは育たん。女ごが下がられんその時代に、なりふりかまわずテボをかろうてきよったよ。昭和でゆうたら30年代、人は「盗くつ掘り」ち、言いよった。
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